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落下/それでも見つけなければならないこと|weekly vol.0111

今週は、うでパスタが書く。

オタク、というと語弊があるが、ある種のひとが「全巻をコンプリート」してみたり、「映画館で一〇回以上」観てみたり、する。

語弊がある、というのは、これは別にオタクに限らず、いろいろなひとが、浴びるように酒を飲んでみたり、女(男)と見てはセックスしてみたり、給料を全部競馬に注ぎ込んでみたり、しているからだ。
これらはすべて好きでやっているのだが、「好き」だということを表現するのにほかに手段がないからとにかく嵩を増さなければならない、数に、物を言わさなければ好きだと分かってもらえない、という切迫感がそこにはある。他に、対象との距離を詰める、その気持ちをどうにかする、方法がないのだ。
だが、物事には「好きだ」と言って、物の数のめり込む以外の向き合い方が、ある。理解したり、昇華つまり自分自身の表現へ発展させてみたり、相手が人間であれば愛しあったりすることもある。賭け事ならばもちろん、勝つことだってできるだろう。
どれもできない人間だけが、やればやるだけ積み上がる数字にこだわる。

「単に映画を愛しているというだけの理由で、映画に愛されていないことに気付かない連中が撮った映画はしばしば壊滅的だ(『ダンス・ウィズ・ウルブス』の常軌を逸した退屈さを思い出そう)」と、「映画狂人日記」で蓮實重彦が書いていることを例に引いてもいいかもしれない(うろ覚え)。

たとえば衝動的であること、移り気であること、攻撃的であること、楽観的であること、ある程度冷酷であること、また同様に暴力的であること、軽率であること、刹那的であること、浪費家であること、博愛的であること、潔癖であること、ある程度破滅的であること、同様に悪食であること、夢中であること、同情的であること、こうしたことは誰にとってもおおむねたやすく、それは結局常人にはかなわぬ形で世界と向き合うことのできない人間が、なんとか稼いだ金に任せて押し入れをいっぱいにし、「自分はこういう人間だ」と叫んでいるのとなんら変わりがない。ひとが生きている意味や、人生の価値なんかは、そうしたところには、ない。
それは、「理解すること」と「表現すること」を両端にした、そのあいだのどこかにしかない。だがそれには多かれ少なかれ、才能が要る。才能のない人間たちが頓珍漢なところへ頭を出して、数字を怒鳴る。たとえば稼いだ金、たとえば使った金、たとえば失った金、たとえば買った本の数、たとえば読んだ本の数、たとえば乗った電車の数、集めた数、泣いた数、入った温泉の数、食べたラーメンの数、たとえばフェスに通った年数、たとえば移動した距離、たとえば行ったことのある国の数、「要精密検査」の数。
答えは全然、まったく違うところで他のひとがもう出しているものだ。大きな声を出すのをやめて、静かに、自分の生きる意味を見つめ、追い求めるべきだ。自分のなかにある才能を見出し、愛でて、生きれば人生はおのずと語り始めるものだ、と思う。大きな声は要らない。

忘れもしない、小学校二年生のときから僕はずっと、大きな声を出して生きてきた。九歳か、一〇歳。おそらくは、一〇歳。なぜならそのとき、クラスの担任が体調を崩して、何人か次々と入れ替わった臨時の先生たちのあとにやってきたある先生が、僕の声を拾ってくれたからだ。それからずっと、ずっと僕は大きな声で生きてきた。この声が聞こえなくなるとき、誰も僕の声に耳を傾けなくなるとき、この人生には意味がなくなるのだと思って生きてきた。
ところがそんなのはとんだ思い違いで、気が付いたときには僕の人生には小学校二年生のとき以来意味なんかなくて、ああ、この途方もない時間を、僕はただ何でもないことを大きな声で怒鳴ることばかりに費やしてしまって、気が付いたらもう怒鳴ることもなくなって、それももう何年も何年も前のことになるのに、それでもまだ怒鳴りつづけるのはほかにやることがないからなのだと、そういうことを最近思う。
村上春樹が「風の歌を聴け」で、おなじようなことを書いていたと思う。それに気付いたとき、ノートの真ん中に線を一本引いて、片側にそのあいだに失ったもの、もう一方の側にそのあいだに得たものを書き上げてみたが、失ったもののリストは限りなく、得たものはひとつも出てこなかった、とそこには書かれていた。

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