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体験したことのない読書体験を:朝比奈秋『サンショウウオの四十九日』

この小説は、杏、瞬という二人が一つの体に生まれた結合双生児の内面を描いていく、ほとんど馴染みのないテーマをもつ。
体を縦に2つに分けた時、その左右それぞれが一人の人間である結合双生児である。
われわれがテレビで見たことのある、腰の部分が繋がっている2人、首が2つある2人といった双子たちとも異なる。
二人は脳のなかの記憶なども共有する形の双生児である。


ここで、杏と瞬の二人の思考や意識が錯綜するといった事態も発生する。
時にはそれらの区別のつかないものもある。
二人にとってはそれが自然なことらしく、滑らかに行われている。
その反面、読者たちは混乱の中に陥られる。「あれ?これはどちらの話だ?」と、ページを遡って確認した回数は計り知れない。
新しいスタイルの文章に触れることができる。芥川賞受賞作を読む醍醐味だ。

面白い、けどわからない

面白いけどわからない。
これが読後の正直な感想だ。

たとえば、結合双生児として生まれた杏は、哲学書や科学書、宗教書で得られた知見を活かしつつ、人間の意識の問題に切り込む。
杏に言わせれば、思考が自らの意識を作り出すことを表したデカルトの「我思う、ゆえに我あり」は間違いである。意識と思考は独立したものであるというのが杏の結論だ。
もっとも、瞬には宗教じみているとまともに相手をされていないのだが、結合双生児という主体が持つ意識の持ちようを考えた時、哲学に与えるインパクトは非常に大きいと言える。

しかし、このような論評をしてみても、なかなかそれ以上のことは言えない。
これはひとえに私の文学への向き合うスキルが不足しているからだろうが、仮にそのスキルが十全にあったとしても、論評し切れる自信がない。

だからこそ、この描写は何を表しているかとか、叔父の死はどんなインパクトを二人にあたえたのか、いや、杏と瞬に別々のインパクトを与えたのかとか他に読んだ友人がいれば語り合いたいと思う。四十九日というタイトルの意味も。

読む人それぞれが抱く感想はきっと異なるだろうし、わからないと思う人もたくさんあると思う。でも、そういう読書体験ができること自体に意味があると思う。
ただそれで終わってしまっては、もったいない気がする。もしこれを私の友人が呼んだとすれば、ぜひ話しかけたいと思っている。


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