違った角度から人生を見れば、人生はもっとすばらしくなる

    わたしは二枚の、憂い顔の写っている写真を見たのを覚えています。二枚の写真を上下逆さまにして二つの憂い顔を逆さに見ると、異なった視覚効果が生じ、独特な美しさも表れてきます。実は、人の一生もそうなんです。人の一生の中で苦難とままならぬことがあるけれども、もし悲観的にならないで、違った角度から問題を見るなら、そのすばらしい面を見られます。

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      人の一生は芝居のようだなと、人々はいつも現実生活の中で感嘆します。「芝居の中」で、さまざまな役があり、わたしたちはそれぞれ異なる役を演じています。大きな志を抱いているわたしたちはみな、自分の一生のために立派な成果を収めたいと思っています。例えば、事業を行う者はとんとん拍子に出世しようとし、役人は一気に高い地位にのぼろうとし、科学研究を行う者は学術界の権威者になろうとします。だが、一部の人は人生の旅の中でつまずきと失敗にあった後、立ち直れなくなり、進むべき方向と原動力を失ってしまい、心の中で悩んでいて、憂鬱な顔をしています。もしわたしたちがまずいことを違った角度から考えれば、まずいことの反面には、造物主から与えられる意外な収穫があると気づくはずです。

     箴言書にこう書かれています。「貧しい人の一生は災いが多いが、心が朗らかなら、常に宴会にひとしい」(箴15:15)。「喜びを抱く心はからだを養うが、霊が沈みこんでいると骨まで枯れる」(箴17:22)。実は、造物主がわたしたちの人生の道筋において、わたしたちをどんなに多くのままならぬことに出会わせても、その中にきっと彼のみこころがあります。これらのことはわたしたちの霊的な命が成長するのに必要なものだからです。

     わたしたちの一生は神の手中にあり、神に支配され、按配されているのです。よい環境も、悪い環境も、順境も、逆境も、すべては神から与えられる、人生を体験する機会です。わたしたちが自分が経てきた人生の旅を振り返れば、毎回の失敗はわたしたちが成功の経験を積む機会で、毎回の挫折はわたしたちの人性を鍛えて成熟させる過程だと分かります。実は、今までのすべての、ままならぬことは、わたしたちの人生の道においてわたしたちを鍛錬するものです。このような苦難、試練のゆえに、わたしたちは自分の内にいつも野心と欲望があれば、きっとつまずき、失敗すると認識し、人の運命が自分の手によって支配されているのではないと分かり、しかも傲慢な性質がすいぶん変わって、控え目な人になり、あらゆることで神のみこころを求めるようになります。だから、人生の苦楽や失敗、挫折はすべてわたしたちの一生の富であり、また神を認識するのに学ばなければならない学課です。

      さらに重要なことに、わたしたちは人生の中の挫折と失敗を経験した後、人の運命に対する神の主宰を認識し、理解するようになり、もう自分の能力で人生を変えようとせず、自分のすべてを神に渡し、造物主の支配と按配に従いたくなり、神と抗争しようという欲望、野心がなくなり、しかも成熟し、老練するようになり、神との関係もますます親密になります。こうして、わたしたちは人生の明るい道をたどるようになります。これはまさに神から与えられる最も大きな祝福ではありませんか。

      だから、どんなことが臨んでも、わたしたちはがっかりしてはならず、また困惑してはならず、神の按配されたすべてはよいのだと知るべきです! もしわたしたちが神の支配に従い、神の救いを受けるなら、わたしたちの人生はもっとすばらしくなります!

     神に祈るのは、神に祈るこの3つの点を理解することはとても重要だ

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