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=思い煩いを神にゆだねる= 先日、とても恐ろしい経験をしました。 見知らぬ人から紙を渡され、銃を突きつけられて、紙に書かれたことを行うよう要求されたのです。 言われたとおりにすると、また別の紙が渡され、一体こんなことがいつまで続くのだろうと、私の心は凄まじい恐れに満たされました。 その時、あることに気づいたのです。 あ、これは夢だ! ただ目を覚ませば、この危機的状況から逃れられるんだ・・。 そして私は目を開け、その瞬間に、私を圧迫していた恐れは跡形もなく消えました
マタイ26章でイエスが、自分はまもなく捕らえられて弟子たちは散っていくと預言された時、かなり勇ましい決意を宣言した弟子がいます。(▲▲は弟子の名前) ▲▲は言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません。」(マタイ26:35) その後、イエスが実際に捕らえられ、連れて行かれた先に入り込んだある弟子は、自分もイエスの仲間だろうと言われて、それを3度も激しく否定しました。 ▲▲は、噓ならのろわれてもよいと誓い始め、「そんな
マタイ16章で、ある弟子が的を射た答えをして、イエスからほめられています。(▲▲は弟子の名前) イエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか。」 ▲▲が答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです。」 すると、イエスは彼にむかって言われた、「▲▲、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉【人間】ではなく、天にいますわたしの父である。」(マタイ16:15-17) そのすぐ後に、ある弟子がイエスをいさめて、逆に叱られました。
聖書を読んでいると、まるで自分にあてて書かれたかのような言葉に出会うことがあります。 初めてそう感じたのは、この言葉でした。 それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、[イエスが]ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。(ヘブル2:14-15) おそらくほとんどの人は、死を頭の隅に追いやり、あまり考えないようにして生きていることでしょう。 私の場合、6~7歳の頃だったでしょうか、死についてかなり意識するようになりま