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聖書の比喩と、この世のフェイク

聖書にあるストーリーを字義通り理解するならば
そのストーリーは非現実的であり、聖書が何を伝えようとしているのか全く掴み取れない
その為、字義通りに解釈するのでは無く
何か他の解釈があるはずだと探求が始まる

聖書が字義通りの解釈では無いのだとすれば
この世の歴史や記録も
聖書と同様に、字義通りの解釈ではなく何か他の解釈があるはずだと合点する

本当に地球は球体なのだろうか?
本当に大地は球体の表面なのだろうか?
本当に地面を掘り続けた先には逆さまな世界があるのだろうか?
本当に水平線は球体なのだろうか?
本当に宇宙空間は黒いのだろうか?
本当に無重力空間は存在するのだろうか?

これら全て、世間で言われているような✌字義通りの解釈✌をするならば
私にとってそれは非現実的である

聖書同様、この世の✌️常識✌️もまた比喩的表現であり
真実は、何か他の解釈があるはずだと合点する

根本的に私はこの世を全く信じていない
他人の言う事、歴史、記録
全てが夢物語だと感じている

つまり、現時点で私は自他の分離意識を強烈に保持している
この自他意識からワンネス意識へと昇華するべく
いよいよ体現していかねば先へは進めない

ただ、聖典は
ガイドブックの役割があると感じている
そこに希望を持っている

この世から脱出する鍵が 仕組みが
聖典には隠されているのだと確信している



とは言え、この世に絶望しているわけでは無い

なぜ、この時、この場所で、
「私」という意識があるのか

その理由を知りたい
目的が何なのか
目的に叶う生き方をしたいものだ