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マンドリンオリジナル

マンドリンやマンドリン合奏の為に書かれた曲を私たちはそう呼ぶ。

クラッシック音楽の編曲、歌謡曲の編曲、映画音楽の編曲…ではなくてマンドリンという楽器を使う前提で作られた曲。マンドリン属で演奏または合奏する場合に最も多く選ばれている曲。

「趣味はマンドリン合奏です」

「マンドリンてどんな楽器?」

世間での知名度は低い。中学校から部活があり、高校では全国大会があり、歴史のある大学にはたいていマンドリンクラブがあり、社会人の団体は星の数ほどあるのにもかかわらず。

マンドリンはイタリアで生まれて育った楽器。ヴァイオリンの遠い遠い親戚でもある。その証拠に2本ずつ組になった4つの弦の音はヴァイオリンのそれと同じ調弦だ。ギターのようにフレットがあって右手にはピックを持って爪弾く。音量はさほど無い。かつてはイタリアの家庭の中で、または恋しい人の窓辺の下で歌と共に奏でられた。現代に於いては生まれ故郷のイタリアよりも日本やドイツや韓国などで盛んに演奏活動が行われている。

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私たちは暑い暑い夏の日に、大阪の全国大会の会場にいた。

山国から新大阪に到着した途端、私たちは暑さにゲンナリした。湿気の多い排気ガス臭い空気が体にまとわりついて離れないからだ。宿泊先のホテルは空調が効いていたけれど、一歩外に出ればまとわりつく暑さ。けれども会場ではそれを忘れた。去年を超える緊張感と武者震いが止まらない。

去年は「文部大臣賞」を獲っていた。顧問は「今年は朝日新聞社賞を獲るぞ!」と宣言していた。

全国高校マンドリンフェスティバルは朝日新聞社が後援する大会で、当時はフェスティバル形式(現在ではコンクール形式)だったため、「文部大臣賞」と「朝日新聞社賞」は同率の1位のような位置付けと言えた。

そう、私たちのクラブは全国大会の常連校で強豪校だった。毎年全国大会に出るのはもちろんのことで、特に在籍していた前後の数年は他に何の賞を獲るかと期待される世代だった。

だから去年も全国大会に出場しているし、代が変わって予選を兼ねた秋の県大会でも十分な成績を収めてきた。萎縮するような要因は何もなかった。

しかし練習通りの演奏ができれば、賞が獲れるわけではない。全国には強豪校はいくつもあるのだ。広島に大阪に奈良に東京に、そして同県から出場している高校も強敵だ。

顧問は情熱のある人だったが、1度も自主性を曲げようとしたことがなかった。特に私たちの代には、気の強い(あくの強い)メンバーが多くて、型に嵌めず放っておいた方が伸びると判断したのだろう。そのことへの感謝は、卒業して何年も経ってから気付くことになるのだが。

その顧問が大会直前になって「賞を獲るぞ」と尻を叩いた。私たちはその話題になるたび顔を見合わせて、そっと下を向いた。負ける気はしないが、勝てる気もしなかったからだ。

ともかく、私たちは全国大会の舞台袖に立っていた。手には脂汗が滲み出てくる。前の学校への講評が終わり、アナウンスに校名を呼ばれた。

緊張はそのままに、席につく。脂汗をハンカチで拭いて指揮者を見る。彼女はゆっくりと全員を見渡していた。イタリアのマンドリン音楽を専門とする作曲家が50年ほど前に書いた小品。イタリアの夜明けの情景をモチーフにしたその曲が静かに始まると、照明に照らされた舞台の上だけしか見えず、観客のざわめきや審査員の手元のライトも思考の外になった。

ひとつの曲を何百回と弾き込んできたのだ。誰かがちょっと滑ったり、タイミングを逃したりするのも手に取るようにわかるが、音の絶妙な重なり具合も、冴え渡るソロの音色もまたよくわかった。

私はギターのパートリーダーだったから、曲の最後にあるギターソロの単音を担当するのは必然だった。その音は夜空の碧が朝日で薄まって、星が消えてゆくように四つの音を配置しなくてはならない。1度も誰にも指導も注意もされたことがなかったから、その私の解釈と奏法はまあ、概ね良かったのだろう。

しかし本番で、最後の高音を思いの外強く爪弾いてしまった。静かに朝日に飲まれるように消えるイメージの音だったのに。

立ち上がって講評を聞く間、楽器を持つ手は細かく震えていた。審査員からの言葉は手放しで褒めてはいなかったことくらいしか覚えていない。舞台袖に引き揚げた後、緊張が解けて泣き出す下級生も居た。私も泣きたい気分だったが、最後の音のミスを誰も指摘しない。そのことがかえって私を落ち込ませた。


結論として、私たちは「朝日新聞社賞」をもぎ取った。そればかりでなく「スペイン大使館賞」まで付いてきた。

私たちはその場では自分たちの成し遂げたことの大きさに見合うだけの心の振れ幅がなくて、かなりクールに見えただろう。賞を狙って来ていた他の高校からすれば癪だったに違いない。

喜びは、宿泊しているホテルに帰り着いて、夕食後くらいになってやっと爆発した。私はやっとのこと「ごめん」の一言が言えたし、冷静そのものだった指揮者は初めて泣いた。朝方まで、興奮は収まらずに私たちはかしましく喋り続けていた。

暑い夏が近づいてくると、あの日のことを毎年思い出す。あんなに暑かった日のことを、まるで自分を吹き抜ける涼風のように思い出す。

知る人の少ないマンドリン音楽の世界。その中でもマイナーな曲を選んで臨んだ勇気は確かに何かを残してくれた。

マンドリンオリジナル曲は今でもずっと愛されているし新曲も続々と発表されている。もう少し日が当たっても良いものなのに、と思い続けている。


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