拗らせた労働価値説至上主義

謝意。

[コメント抜粋]
「勤労の義務」は義務ではありません。FIREを憲法違反という人はいませんよね?
[抜粋終了]

このコメント、非常に良い気づきを与えてくれました。この場を借りて、コメント主の方に感謝を申し上げます。


勤労の義務に凝り固まる

何故感謝しているのか?
自分はまだ何処かで勤労の義務に固執していた部分があったのかもしれないな、という気付きを与えてくれたからです。

勤労の義務が明文化されている現行日本国憲法だと、「失業者・無業者・乳幼児・リタイヤした高齢者」は勤労の義務を果たしていないから存在が憲法違反になってしまう。
でも、将来を担う乳幼児は労働できません。失業者や無業者は労働したくてもできない人々です、リタイアした高齢者を無理やり労働させるなんて一般通俗では非人道的扱いでしょう。

「日本国憲法は形骸化したどころか、最初から形骸化しているシロモノ」というコメントは、頷くしかない事実です。

では、勤労の義務の憲法化などというシロモノはどこからやってきたのかというと、1936年にソ連で制定された通称・スターリン憲法です。もうここで「あっ…(察し)」ってなりますよね。

自分もよく言われた「働かざるもの食うべからず」なんて言葉ですが、あれも出典はスターリン憲法なんですよね。そして、言葉を都合よく利用する全共闘世代。

余談だが、これにはソ連圏の歴史が深く関わっている。ロシア帝国時代の農奴制の名残りが色濃く染み付いていた為、農民からすれば「いくら作っても上から難癖つけられて収奪される」という考えがすっかり定着してしまっていた。ロシア帝国からソ連になったとて、その因習が一挙に改善されるなんて訳がない。
ヨシフおじさんからすればそれらロシア帝国から続く農民の習慣的怠惰(学習性無力感)及び不信が滅茶苦茶気に食わない。農業機械導入したり集団化を進めたのは効率化と農民の労働を楽にする為、引いては農作物輸出で外貨を稼いで五カ年計画で重工業発展という皮算用なのに、一向に「自分たちが食う分だけ作ればいいや」という農奴的体質から脱却しないソ連圏の農民の体質を嫌っていた。「あいつらなんて怠惰な連中だ!ふざけんな、チクショーメ!(意訳)」みたいな事をぼやいていた、なんて逸話もあるくらいだ。
だからといって現代まで禍根を残しているホロドモールはやり過ぎだが。

もっと身近な例を上げよう。地上の楽園(by朝日新聞)こと朝鮮民主主義人民共和国(通称・北朝鮮、俗称・金氏朝鮮王朝)の憲法第83条では「労働は、公民の神聖な義務であり、栄誉である。」と清々しいまでに明文化されている。

逆に、赤い資本主義な中国は意外な事に労働の義務は明言されていない。むしろ、その労働法は「就業促進せえや」「きちんと労働者保護せえや」が明文化されている。
最も、賄賂でどうとでもなってしまうのも中国だが…。

勤労(労働)の義務というのは極めて共産主義的な思考に基づいているのではないだろうか、という疑問が浮かんできました。


「働かざるもの食うべからず」から「労道」へ、そして労道神聖主義国家爆誕

共産主義諸国で「神聖な義務」とまで言われた労働だが、これが一部共産主義者によって導入され、日本人得意の魔改造によって歪な進化を遂げていく。それが「労道」だ。

元々の出典は10年以上前の頃、海外ニート氏と名乗る人物が自身のブログ「ニートの海外就職日記」で日本国内の労働環境や労働慣行が如何に特殊で歪でグローバルスタンダード的には非常識で、日本の労働が何時しか「○○道」の様な形式・格式重視で実用性の低いブルシットジョブ化しているのかというのをアイロニーを込めて皮肉った文章だ。

[本文抜粋]
未だに履歴書を1枚ずつ手書きするのも、言ってみれば写経wみたいなモノか? 本来、仕事は生活するための手段に過ぎないのに、日本ではいつの間にか仕事自体が目的になってしまっているんだよな。諸外国では当たり前のwork to live(生きるために働く)の価値観が、live to work(働くために生きる)にすり替わってるんだから。 日本の仕事観が宗教に例えられるケースは度々あるけど、仕事=宗教だとすれば仕事にまつわるありとあらゆる理不尽にも全て合点がいくw
[本文抜粋終了]

仕事が宗教化している、という指摘は正しい。
労働は基本的に罰則と考える一神教と違い、日本神道における八百万の神々は機織りや米作などの労働をしているのだ。即ち、日本において労働が宗教化する土壌は既に出来上がっていた、といっても過言ではない。

そんな国だから労働は神聖視されやすいし、労働価値説もすんなり導入されて道徳化していった。「日本は最も成功した社会主義国家」という揶揄だが、日本神道に既に組み込まれていたのだからその成功は約束されていたようなものだ。


日本式労働価値説の破綻とその言い訳

「その国の歴史や地理によって政策は変わる」の実例のような日本式労働価値説だが、経済成長が右肩上がりで自身も裕福になっているという実感がなければ、単なる労働力の買い叩きに成り下がる危険性をはらんでいる。

我が国はその社会実験を、実に30年近くに渡って実行してきた。
結果はご覧の通りであり、それを糊塗する為に労働を道徳化したのが労道、という訳だ。

なお「労働価値説を否定するって事は、近代経済学の祖であるアダム・スミスも否定するって事だよなあ!?」「労道とかほざいている連中はアダム・スミスを否定しているようなもんだよなぁ!?」というイキリキッズを所々お見かけしますが、ようやく産業革命の萌芽が見え始めた時代に生きたアダム・スミスの時代、そこからちょいと下ったマルサスの時代から現代って何年経ってんねん?って話ですよ。ようやく蒸気機関が実用化されつつあった時代、「水と空気からパンを作り出す」とまで言われたハーバー・ボッシュ法もない時代ですよ?一緒にすんなやアホンダラ。

あと、最近悲惨な労働環境と低賃金を糊塗すべく「世の中は誰かの仕事でできている」「仕事は金銭だけではない、社会的な繋がりも作ってくれる」などと言い繕う向きもあるようだが、口先だけで褒めて、結局は高労働強度低賃金で使い潰そうという魂胆が丸見えなんですよねぇ。

そう言ってる界隈に限って、他人を低賃金で使い捨てにする前提で話を進めているからたちが悪い。「世の中は誰かの仕事でできている」というのなら、せめて待遇上げろやって話ですよ。

待遇悪い、社会的地位も低い、でも社会的には必要だからお前が犠牲になってくれ、少なくとも口先だけでなんぼでも褒めればゼニは掛からなくて済むから承認欲求だけは満たしてやる…

「フェミニストはブルーカラー男を差別しているのではない。ただ見えないだけだ」ってTwitterで言いましたが、ホワイトカラー男(特にルンペンブルジョワジーや社会科学系学徒)は「見えている上で」そう言っているのだから始末が悪いんですよ。

言っても聞く耳を持たないだろうがな!


覚悟がない連中の口出しほど腹立たしいモノはない

この手の連中はバカにされているというより、呆れられている。

「高齢者は椅子を明け渡せ」論者は、この30年間「誰でもできる仕事」呼ばわりされ買い叩かれてきた国家の基礎をなす産業群(農業・漁業・畜産・製造業・建設業・運輸業など)が尽く高齢化しているという事実を都合よくすっとぼける。

何故なら、国家の基礎をなす産業群は「誰でもできる仕事」という名目で尽く低賃金に抑えつけられている。「高齢者は椅子を明け渡せ」論者は「低賃金なのはお前の価値が低いからだ」という自己責任的現代日本道徳を内包しているからだ。

彼らの言う「高齢者が明け渡すべき椅子」とは、所得が高くホワイトで美味しい職業なのだろうと類推される。だとしたら、言っている事は彼らが批判している、ブルーカラー男が見えないフェミニストとやらと全く同じじゃないか、という事になる。

ソフィストでもある彼らは追求されると、口舌巧みに誤魔化すだろう。彼らは「ハーメルンの笛吹き男」でしかない、甘い音色に聴き惚れていると何処に連れて行かれるのかわからない。

御用心、御用心。

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