民意主義と民主主義②〜イケナイ憲法論

前号から続く。


ゲンダイニッポンの自称リベラルには不都合すぎる、民主主義の担い手の歴史

さて、民主主義というものを考える際に、民主主義の担い手の歴史を知るというのは避けては通れない道であろう。

古代ギリシアの都市国家アテナイにおいては、民会による直接民主主義制度が取られていた。アテナイの市民であれば、誰でもが直接法案を提出できた、議決権もあった。但し、それはアテナイの市民権を持つ成年男子だけに限られ、外国人・女性・子供は対象外だ。現代のWokeismにガンギマリした人間なら「こんなモノ民主主義ではない!」と口角の泡を貯め、眼を剝いて激怒不可避だ。

しかし、同時に成年男性のアテナイ市民が「有事には武装して侵略者と戦う、軍務という義務」も負っていたとするなら、あの方々はどう考えるだろうか?
何せ、成年男性のアテナイ市民の日常生活は基本的に何もしない。経済や生産活動は奴隷の役目、女性は家庭内手工業や家政だ。そんなニート状態の成年男性アテナイ市民は暇の余り、色々とやりだす。後にギリシャ文化と称される豊穣な文化が花開いたのは、アテナイのニート達のお陰でもある。

共和制ローマも同様だった。ローマ市民権というのはローマ法の庇護権を受けられると同時に、ローマ軍の兵役という義務を負った。

時を経て、民主主義というものが再び脚光を浴びたのがフランス革命後である。ルイ十五世末期には外交政策と経済政策の失敗が重なりほぼチェックメイト状態だったブルボン王朝をギロチン台に送りまくっていたその頃、フランス革命政府のお偉方は絶望した。

国の金庫が文字通りスッカラカンだったからだ。

その間にも、フランス革命の伝播を恐れる周辺各国は対仏大同盟を敷いてくる。下手を打てば周辺諸国からフルボッコ、今度はフランス革命政府がギロチン台行きだ。
そして彼らは妙案を思いついた。

「せや、金で釣れないなら権利渡したろ。ローマ市民権の復活や!」

それまでの欧州では「戦争に行くのは限られた訓練されたプロフェッショナルだけ」だった。傭兵が暴れ回った30年戦争を経て、王侯たちはせっせと軍備増強し、チラ見せして後は外交にて決する。それが18世紀の欧州の戦争の実相だった。

これが、イギリスの産業革命とフランス革命でもって一変する。

産業革命によって大量製造された武器を持ち、権利を人参の餌にされた国民が軍務につく。ナポレオンのグラン・ダルメが全欧州を暴れ回れたのも、この両輪を上手く回したのが一因だ。

日本における男子普通選挙権も似た様なものだ。
面白いのはほぼ同時期に制定されたのが治安維持法という点だ。
「これまでの国家への貢献を鑑み、徴兵に応じた者たちに選挙権を与えるものとする(男子普通選挙権)。但し、この皇國を乱さんとする者(主に共産主義者、ソビエトロシアの手先、不逞○人)には相応の罰が待っている(治安維持法)ものと心得るべし」

これが、当時の帝国政府の偽らざる感情だろう。

このタイミングで陸軍統制派の動きが活発化したのは偶然ではあるまい。彼ら陸軍エリートは「選挙権と軍務は切っても切れないもの」という歴史は当然学んでいた筈であり、国際情勢を鑑み総戦体制の構築の研究を行う…という大義名分が通ると思い込んでいた。それが独善的になっていったのも自省できずにだ。

もっと有名なのはアメリカ合衆国憲法修正二条だ。
(憲法論議になると大体槍玉に上がるのが日本国憲法第九条及びアメリカ合衆国憲法修正二条で、アメリカ人から「あのCode9何とかしてくれ」と言われると、「じゃあ君らのセカンドアメンドメントはどうなん?」と言い返すようにしている。大体それで納得してくれるようだ)

かのごとく、軍務と参政権は見事なまでに、密接に結びついているのだ。ハインラインのスターシップ・トゥルーパーズの世界観がアメリカでは普通に捉えられえているが、日本ではディストピアに扱われているちぐはぐさは、ここに由来する。何でもセンソーハンターイな日本のオールドリベラルにとっては非常に不都合であろう。


ゲンダイニッポンにとっての兵役とは、即ち経済活動であるという不都合なゲンジツ。

では、現代日本における「選挙権と引き換えの軍務」に相当するのは何であろうか?

日本国憲法には「国民の三大義務」というのが設定されている。

  1. 教育の義務

  2. 勤労の義務

  3. 納税の義務

日本国憲法による良き日本国民とは「きちんと教育を受けて教養やスキルをちゃんと身につけて就労し、勤労によって国内を経済成長させ、その伸びる所得からきっちり納税する事」と定義されると言い換えても良いだろう。

しかし、現代日本において上記の『良き日本国民』というハードルは上昇の一途だ。

まず教育の義務だが、現代日本の子育て世代の過半数は「教育(機会)の平等は必要ではない」と考えている。第一、国が教育投資を無駄と称してどんどん削減している。

次に勤労の義務だが、勤労の入り口で勤労機会から排除された人間もこれまた沢山存在する。

そして納税の義務だが、これが派生して『無駄な税金論』となり、現代日本の阿鼻叫喚地獄な猖獗の言論界を形成している。

「選挙権と引き換えの国民の三大義務」を果たせない国民の増大を招いた、というのが平成年間の実相であろう。


制限選挙論?

かくの如く、国民の三大義務というのは最早完全に形骸化している。
故に最近では、制限選挙制にすべきだという意見がちらほら出てきている。主にIT系で成功を収めた成金層は「所得で制限しろ」と主張し、インテリたちは「国民全員に義務教育程度の標準テストを実施し、一定点数以上のみに選挙権を与えるべき」と言い出している。

持てる者の傲慢と言う事なかれ。彼らの発言は少なくとも2000年頃には既に一般化されていた。

[本文抜粋]
「できん者はできんままで結構。国への忠誠心さえ養えばよい」「魚屋のせがれが官僚になるようなことがあったら国が不幸になる」と、多数の凡人の中にも必ず幾人かはいるはずのエリートを見つけて伸ばすための「選民教育」であるという主旨を述べた
[本文終了]

東大卒というだけで無能どころか有害な人間が一つの省庁の長となった結果がゆとり教育である。
(余談だが、自分は「ゆとり世代」などという呼称が大嫌いである。きちんと「ゆとり教育被害者世代」という正確な呼称をすべきだからだ。当然、当時選挙権が無かった彼らには何の咎も責任もない、責任を負うべきは教育の義務を怠った連中だ。)


憲法読みの憲法知らず

我が国のリベラルを自称する護憲派はやたら中華人民共和国共産党に対するシンパシーが強いが、かつての中国の偉人たちが戒めた「匹夫の勇、婦人の仁」を思い切り発揮している。

論語読みの論語知らず、そう言われてもおかしくない護憲派のスタンスは日本国憲法においても発揮される。

[憲法前文・抜粋引用]
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。

今の中国共産党及び人民解放軍に、平和を愛する諸国民の公正と信義ってあるんですか?

[憲法第12条・引用]
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

護憲派は9条(たまに思い出したかのように25条)を持ち出すが、憲法前文及び12条に関しては全く言及しない。それどころか国民に保障された自由と権利を濫用している現代の自称リベラルの方々は完全に憲法12条違反だったりする。

自称保守派は国民の三大義務の履行を阻害する、自称リベラル派は日本国憲法を不磨の大典と言いながら憲法違反をしている。

彼らが憲法を語るのは百年早い。

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