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#005 見えざる贈与のバトンを受け取る

今日、大学時代の先輩の結婚式に行ってきたんです。


それはもう本当に素敵な挙式で。

新郎新婦共に、同じ部活の先輩だったわけで、本当に今日招待いただいて参加できてよかったなと、

そう思うわけなんですけどね。


当然のように、先輩の同期の方々もたくさん来席されてたわけです。


もう何年ぶりなんですかね、

一緒に活動していたのは2014年とか15年だったので、

ゆうに8年とかの歳月が経ってるわけです。


歳も28〜29ぐらいなわけで、

もう社会人としてバリバリ脂乗ってきた、そんなかっこいい先輩方とたくさん話す機会がありました。


大学は東工大に通ってたんですが、もちろん先輩方も東工大生。

新郎新婦も含めて、まあ絵に描いたようなエリート街道を進んでいる人ばかりですよ。そりゃ。


やれ新しい研究技術の特許を取得しただの、

やれ電気自動車の最新技術開発をしているだの、

やれ金融商品を一から作る側の仕事をしているだの。


もう、すごい。

誰でも知ってる大企業の出世ルートをスルスルと順調に登ってるわけです。


しかも、毎日の業務の中で鍛えられてるんでしょう、

人間としてのレベルもものすごく高い。


披露宴の後、大学の方々だけで二次会で行ったんです。

そしたらもう、本当にみんな優秀。

ただ勉強ができる人たちではなく、頭の回転も早ければ気配りもできる。


あんまり喋らない人とかには、もうMCのごとく満遍なく話をふりつつ、
複雑で説明するのが難しいようなことも、例えとか使ってサラッと説明し、
ちょっと小話を話したと思えば、ユーモアを交えてドッと笑いをとる。


もうね、すごい。


本当に、格の違いってこういうことを言うんだなと、

なんか、内心めちゃくちゃ落ち込んでました。


僕なんてもう、

なんか喋ってもしっちゃかめっちゃかですよ。


例えば、なんかの流れでインボイス制度の話になりまして。

(この時点で結婚式の二次会でする話じゃないんですが、)

僕は個人事業主なのでモロに影響受けるんすよ、と話していたら、なぜか僕がインボイス制度を簡単に説明することになってて。


もう、その時はほんとに酷かった。

「とにかく個人事業主にとって損で…
 インボイスに登録しないと、間接的に収入が減っちゃうみたいな…」


なんか、自分の頭の中ではある程度理解していて、僕の立場ではどんなデメリットがあるってのを把握してるつもりだったんです。

でも、いざ人に説明しようってなるともう、ボロが出まくる。

全然伝わらないし、なんか気まずい空気になるし。


この時点でね、もうエリートと比べて圧倒的な経験値不足を感じたわけです。

ここ5年くらいはほぼ1人で生計立ててたわけで、

そもそもの人と話す絶対数が少ない。

だから、人にものを伝える能力が全く培われてないわけです。


さらに、久しぶりの人だったり、めちゃくちゃ仲がいいわけでもないいわゆる「知り合い」レベルの人との会話。

まさに当時の大学の先輩ってのが当てはまるわけですが、

そういう人と会話する時って、めちゃくちゃ気を遣ったり言葉遣い選んだり、エネルギーを使うじゃないですか。


もう、その耐性が無さすぎるな、
マジで人とまともに話せんやんか、

って、一見ニコニコして二次会参加しながら、後半は内心絶望しながら過ごしてました。


いやー、、

20代後半で、こんなに差がつくかね。


なんか悔しいとかそういう感情ではなく、

ただただ情けないという感情ですよ。

これほどまでに僕は、人間社会から逃げて逃げて逃げて30手前まで来てしまったんだなと。



僕は大学4年当時、企業に就職して働く人生にこそ絶望を覚え、1人で起業して生きる決断をしました。


当時、多様な働き方に世間が寛容になってきていた時期。

人と関わるの苦手だし、1人で悠々自適にパソコンだけで生計立ててる人もいっぱいいるし、

そういう楽で自由な生き方できるんなら、それがいーや!

と思って、僕は東工大まで来て新卒就職という日本におけるゴールデンカードを捨てました。


しかし、1人で生計を立てるということに真剣に向き合った時、

ビジネスをすること、つまり1人1人の人間と向き合うことが必要不可欠だということに気づきました。


1人でのんびり暮らしたいからとか、好きなものを食べて、好きなところにふらっと旅行してみたいな、

自分勝手な動機だけで構築されたようなあくどいビジネス。

そんなビジネスに本質はないことを、肌で感じることができました。


ではどうするか。残った答えが、

真剣に人と関わり、人に喜んでもらうこと。


企業で組織に属しようが、個人事業主として委託仕事をしようが、アルバイトをしようが、新しいビジネスを自分で興そうが、

結局、人と関わることから逃げることは、人生から逃げることである。


そんな自分の中での答えが見え始めていた頃、

まさに今日会ってお話しした先輩方に、鈍器で殴られたように諭されたような、

そんな感覚でした。


ああ、、僕は5年間という貴重な時間を、全く人間的な成長に充てず、

人との関わりを断ち、自分勝手なビジネスをして、

社会的な経験値を全く積まず、

人にものを伝えることすらまともに出来ず、

同世代の人間とこんなにも大きな差ができてしまっていたのだと、

そう突きつけられた感覚でした。


今まで何してたんだろう。

大したこと、何にもしてない。

自分は今こんなビジョンがあってこんなことをやってるよ!と

全く自信を持って言えない自分。



あからさまに、その差を二次会会場の雰囲気から感じ取ってしまって。

仕事や日々を通じて、人間性社会性を磨くことが美徳だ、というのが当たり前すぎる空気に飲まれて。


やっと、肌でその危機感を感じることができたような気がしました。



いや正直、今日行きたくない気持ちも結構強かったんですよ。

この日の予定が埋まった時から、何か息が詰まるような思いがありました。


日々ギリギリの貧乏生活をしてるので、正直ご祝儀なんて払うお金なかったのもあります。

さらに、同期もあまりいない、そこまで深く話したことのない先輩方ばかりの挙式なんて、ただ精神が疲弊するだけだと思っていたのもあります。

そして、どこかで、真剣に人生を生きている人たちにたくさん会うのを無意識的に避けていたのもあると思います。


でも、今日行けてよかった。


確かに慣れないことも多かったから、精神的にはかなり疲れました。

欠席して、いつものように家でぐうたらしてたら、どれだけ心は平穏だったことか、楽だったことか、とは思います。


でも、人生における成長というのは、こんな、痛みを伴った経験によってしていくものなんでしょうね。

まさに、傷つき再生することで強固になっていく「筋肉」が比喩としてぴったりです。



僕はどこかで、人生のゴールデンルートを進むエリートたちを見下そうとしていたところがあったように思います。


自分の意思なく、敷かれたレールに乗っているだけで、

上司からの理不尽な要求に耐え、

不当な利益至上主義に飲まれ、

資本主義のモルモットになっているだけだろう、と。


だったら、自分の意思でやりたいことを主体的にやっていたほうがいいだろう、と。

たとえ収入が負けていようと、そっちの方が格好いい生き方だろう、と。


そう思っていたのは、全て、真剣な人生を生きることから逃げるための言い訳だったんでしょうね。

心が痛むのが、失敗するのが、人に悪く思われるのが嫌だから、

だったら戦わなければ傷つくことはないと、孤独で何もしないことを選んだに過ぎないのでしょうね。



結婚式。


なんで膨大なお金と労力をかけて、一見無意味なこんな儀式をするのか、わからなかったんですよ。今まで。


強いて言えば、ただ婚姻届の紙切れを出すより、多くの証人に結婚したことを見てもらうことで決意を固めるための儀式。くらいの認識。

だからそこに、外野である新郎新婦以外の人間は、証人になること以上の存在価値を見出すことができていませんでした。


しかし、結婚式ほど、ある2人の人間の大きな決断、つまり人生における大きな成長の瞬間を見届けられる機会はそうないでしょう。

人生を真剣に向き合うところを人に見られるというのは、小っ恥ずかしかったり、はたまた恐怖すら感じるわけで、

でもそんな真剣さを、しかも近しい友人だった彼彼女が、真剣さを体現してくれている。

そんな光景を目の当たりにしたら、そりゃ何も感じないということはないでしょう。


自然と、

「僕も明日から頑張ろう」

と、心変わりが起こるものだと思います。


そう考えると、結婚式においての新郎新婦とは、

最高の主役であると同時に、

参加者全員をも人生の主役たらしめるための最高の「見えざる贈与」を行う存在なのだと捉えることができます。



現に僕は、こんなノートを書くくらいの心境の変化が起きているわけで。

この見えざる贈与を、また誰かへの贈与として還元し、

この世界に循環させていく。


そんなことを目標にしたいと思いつつ、今日は眠りにつきたいと思います。

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