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浄土思想としての『大乗起信論』

勝方便の念仏(修行信心分)

 『大乗起信論』は馬鳴大士が大乗仏教の深義を顕した論書で大乗通申説とも云われ古くから重要視された仏典である。その内容は大乗仏教の教理を懇切丁寧に明らかに示したもので、前半が仏教哲学、後半が信仰論並びに修行論である。
 基本的に聖道門の仏教徒が味わうべき法を中心に説かれているわけであるが、「修行信心分」の最後に突如として浄土門の念仏が「勝方便」として説かれるのである。

 復次に、衆生にして初めて是の法を学して正信を欲求するに、其心は怯弱にして、此娑婆世界に住するを以て、自ら常に諸仏に値うて親承し供養すること能わざらんことを畏れ、懼れて信心は成就すべきこと難しと謂い、意の退せんと欲する者には、当に知るべし、如来に勝方便ありて信心を摂護す、(これ)意を専らにして念仏する因縁を以て、願に随って他方の仏土に生ずることを得、常に仏を見て永に悪道を離れしむるを謂う。修多羅に、「若し人にして専ら西方極楽世界の阿弥陀仏を念じて、修する所の善根を廻向し、彼世界に生ぜんと願求せば、即ち往生することを得」と説くが如く、常に仏を見るが故に終に退することあること無し。若しくは彼仏の真如法身を観じて常に勤めて修習すれば、畢竟して生ずることを得て正定に住するが故なり。
(『大乗起信論』宇井伯寿・高崎直道〔訳注〕岩波文庫106~107頁)

 現代語訳は以下、

 また次に、もし臆病な衆生があって、はじめて正信を求めて、この教えを学んでも、なおこの娑婆世界に住んでいる限りは、自らすすんで諸仏に値い、親しくお仕えして、供養することはできないのではないかと危惧し、また、信心を成就することはとても難しかろうと危ぶんで、修行をやめたいと思う者があるが、かれらに対して、如来にはとっておきの勝れた方便があって、かれらの信心を護って下さることを知っておくがよい。
 すなわち、その心を専ら念仏に向けると、そのおかげで、その願いに応じて〔死後、この婆世界より〕他方にある仏の浄土に生れることができ、それによって何時でも仏にお会いできて、永遠に悪道に陥ることを免れることができるのである。この点について経中には、
「もし人が西方極楽世界の阿弥陀仏を念じつつ、それまでに修習した善根の功徳をふり向けて(廻向)、その仏の世界たる極楽に生れたいと願う者があれば、その人は即座にそこに往生することができる」
と説いてあるように、いつでも仏にお会いできるので、〔信心が〕後戻りすることがない。その上また、もしその阿弥陀仏の本体たる、真実のあり方そのものとしての身(真如法身)を観じ、たえず修習をくりかえし勤めるならば、終には、その浄土に生をうけて後〔菩薩として、さとりへの道の〕正しく決定したちのの仲間入りをすることができるというわけである。
(『大乗起信論』宇井伯寿・高崎直道〔訳注〕岩波文庫285~286頁)

 唐突に説かれる念仏に初めは疑問に思うが、これを浄土門から据えれば何ら不可解なことではないことに気づく。現に浄土宗の望月信亨師・熊野宗純師並びに真宗の隈部慈明師といった先徳方は、唐突に説かれるこの「勝方便」の文を浄土門から解釈して疑問を解決しておられる。
 それもそのはず浄土門では馬鳴大士は八祖のうちの初祖に当たる祖師だからである。そこで上記お三方の「勝方便」の解釈を拝読してみたい。

『講述大乗起信論』 望月信亨

 先ず浄土宗の望月信亨師の『講述大乗起信論』を取り上げる。

 是の如く起信論では、怯弱の衆生の為に浄土往生の法を勧めた。即ち四信五行を修して、この土で種性地に入られるものは、その法に依って、修行を進めてゆくも宜いが、若しも止観の修行に堪へず、無佛の世界では信心の成就が覚束ないと思う人は、如来の勝方便を憑んで浄土に往生するのが、不退に登るべき捷径であるという説き方である。而してこれが即ち修行信心分の最後の結文であるから、此論は一面よりいえば、浄土往生を以て仏教の帰結としたものと見るべきである。蓋し占察善悪業報経巻下にも揚ぐる所であるが、怯弱の衆生の不退を得る便法として浄土往生を勧めるのは、龍樹の十住毘婆沙論第五易行品の説に正しく合致するので、恐らくこれは彼論から導かれた考えであろうとおもはれる。兎に角、斯様に浄土往生の説が強調してある所から古来浄土諸家に於て此論を珍重したものである。
(『講述大乗起信論』望月信亨 冨山房 196~197頁)

※種性地……住不退の位。内凡。

 上記の「如来の勝方便を憑んで浄土に往生するのが、不退に登るべき捷径であるという説き方である。而してこれが即ち修行信心分の最後の結文であるから、此論は一面よりいえば、浄土往生を以て仏教の帰結としたものと見るべきである。」から「勝方便」が説かれることが明白である。馬鳴大士の主張が衆生をして阿弥陀仏への念仏に導くこと、つまりは浄土門に帰することこそ『起信論』の真意だとするのである。

『大乗起信論精義』 隈部慈明

 次に真宗の隈部慈明師の『大乗起信論精義』を取り上げる。

 この一段は、一寸見ると如何にも心弱き凡夫を誘引するために假に一の方便道を明かしたものであるやうにもへるけれども、深くその意を考へてみると決してそうではなことがわかる。
(中略)
信であれ行であれ、ただ自分がそれを信じ行ずるというだけの意味では真に成就せられるものではない。必ずやその根底に於いてに絶対的なる不動のカに摂護せられるところがなくてはならないのである。馬鳴がこれまで如何に真如内薫のカに対して諸佛外縁の力を力説したかを味ったならば、そのことは自ら了解せられるであらうと思う。由来宗教の本義は縁にあるのであって、たとい内因のカあるにもせよ外縁のカがなかったならば宗数は遂に起り得ないのである。故に理としては真如の内因に立脚して論ずべきであっても、宗教としてはどうしても縁に立たなりればならない訳である。
だから今修行信心分を明すについても、これまでは信行の因について明したのであったが、今はそれに対する縁を明したのでめって、恰も解釈分に於いて真如の内因が諸佛の外縁によりて薫発せられたが如く、今も信行の因は全くこの如来の勝方便カによりて始めて成就せられるということを説いたのである。この意味からいえば本書一部の所明は全くこの易行念佛の信を解釈したものであって、この一段は本書全部の総結であるともみることが出来るであろう。
(『大乗起信論精義』隈部慈明 法蔵館 356~357頁)

 上記に引いた文から何故念仏が説かれるかが知られる。
それは「宗教の本義は縁にあるのであって、たとい内因のカあるにもせよ外縁のカがなかったならば宗数は遂に起り得ないのである。」からであり、外縁の力とは「如来の勝方便カ」であり、そして始めて信行は成就できるのであるという。

『大乗起信論梗概』 熊野宗純

 極めつけは浄土宗の熊野宗純師の『大乗起信論梗概』である。

 而もこの論、四信五行を説ける後に更に念仏の一門をひらき念仏をすすむる所以は那辺に存するのであろうか、四信五行の修養法勿論緊要ならざるにあらざれども、憾むらくは私達の心性は久遠劫来の心のやみと心の惑より造り出したる妄業の力により余りにも深く覆いかくされていて、これを開顕するべく自分の力の余りにも弱さを痛感するのである、その高遠なる教理。その厳密なる戒律もその幽玄なる観法も、下智鈍根の私達に対しては畢竟猫に小判である。
(中略)
今ここに再び此論を検討せんか、論に最初に大乗の法義を説き、之を実際に修行するに当りて四信五行の法を示し、最後に易行他力念仏門を説けることは、馬鳴菩薩の真意は大乗の法談を体現するは一に念仏によるべきを勧説し給えるにはあらざるか、仏陀世尊、王舎城に於て韋提希夫人の請いに応じて観無量寿経を説き給うや、 初に広く定善散善の法を説き最後に上の定散二善を廃して念仏の一法を勧め給う、 善導大師観経の疏に於てこの一段を批判して、〈上来定散両門の益を説くと雖も、 仏の本願の意に望むるに、衆生をして一向に専ら弥陀仏の名を称せしむに在り〉と 断定し給う、今この起信論も彼の観無量寿経と脈々相通ずる所あるではないか。
(「大乗起信論梗概」『念仏より観たる法華経 起信論 般若心経』熊野宗純 熊野上人遺稿刊行会 163~165頁)

 『大乗起信論』における「勝方便の念仏」は、恰も『観無量寿経』において定善・散善が長々と示された後に突如として念仏の付属が説かれ、善導大師が念仏の付属を以て『観無量寿経』の総結であると決したことに酷似するという。

その『観無量寿経』の文とは、流通分における次の一文である。

 ほとけ、阿難に告げたまはく。汝よくこの語を持て、この語を持つとは、即ち是れ、無量寿佛の名を持つなり。」
(『浄土宗聖典』 望月信道〔編〕 浄土宗聖典刊行会 278頁))

現代語訳は、

〔そして最後に〕釈尊は阿難に仰せになった。
「汝、〔今、私が説き示した〕この教えをしっかりと胸に刻み込め。この教えを胸に刻み込めとは、無量寿仏の御名を胸に刻み込め、ということに他ならない」
(『現代語訳 浄土三部経』浄土宗総合研究所 227頁)

 この『観無量寿経』の一文を浄土教の大成者にして、浄土門の絶対的権威である善導大師は、『観無量寿経疏』において以下のように釈しているのである。

 佛告阿難汝好持是語より已下は正く弥陀の名号を付属し遐代に流通せしめ給ふことを明す。上より来た定散両門の益を説くと雖も、 佛の本願に望れば意衆生をして一向に専ら弥陀佛の名を称せしむに在り。
(『浄土宗聖典』 望月信道〔編〕 浄土宗聖典刊行会 516頁)

 現代語訳は、

 「仏、阿難に告げたもう――汝、好くこの語を持て。この語を持てとは、すなわちこれ無量寿仏の名を持てとなり、と」という経文は、まさしく阿弥陀仏の名号を阿難に託して、はるか後世まで伝えようとされたことを明らかにしたものである。これまでずっと定善と散善の両方の利益を説いてきたわけであるが、阿弥陀仏の本願を思いあわせてみると、釈尊の真意は、衆生をしてひたすらに阿弥陀仏の名を専ら称えさせることにあったのである。
(『人類の知的遺産18 善導』藤田宏達 講談社 307頁)

『大乗起信論』の帰結

 このように『大乗起信論』と『観無量寿経』を比較すれば、どちらも最終的に「念仏」を以てその趣旨を完結させていることが見て取れる。そして先に述べた浄土門の先徳である三人の解釈を窺えば、浄土門から見た『起信論』の帰結は「念仏」にありということが言えるのである。

 実は浄土宗の法然上人は『起信論』を『選択本願念仏集』の中で、取り上げているのである。

 次に「傍に往生浄土を明すの教え」というは、『華厳』・『法華』・『隨求』・『尊勝』等の、諸の往生浄土の行を明かすの諸経是れなり。また『起信論』・『宝性論』・『十住毘婆沙論』・『摂大乗論』等の、諸の往生浄土の行を明かすの諸論是れなり。
(『選択本願念仏集』法然 石上善應〔訳・注・解説〕ちくま学芸文庫 35頁)

 現代語訳は、

 つぎに、付随的に浄土に往生することを説き明かしている教えを記しているものは、『華厳経』『法華経』『随求経』『尊勝経』などの、もろもろの浄土に往生することを説き明かしている経典のことである。また、『起信論』『宝性論』『十住毘婆沙論』『摂大乗論』などの、もろもろの浄土に往生することを説き明かしている論のことである。
(『日本の名著 5 法然』中央公論社 112頁)

 取り上げているとはいえ、あくまでも『起信論』は「付随的に浄土に往生することを説き明かしている教え」として列挙された中において紹介されているので、浄土門の正依の論書ではないが、浄土門の範疇における論書であることは疑いない。
 この故に、前述の望月信亨師の「斯様に浄土往生の説が強調してある所から古来浄土諸家に於て此論を珍重したものである。」との言葉にもあったように、浄土門の先徳方は『起信論』を念仏往生の書として扱うのである。


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