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阿弥陀仏が四十八願を発した場所を考える

阿弥陀仏の誓願

 阿弥陀仏は過去世において法蔵比丘として修行していた時分に、師の世自在王仏の御前で四十八願なる誓願をお立てなったのであるが、法蔵菩薩および世自在王仏が在ました処は如何なる場所であったのかという疑問がある。即ち我々の住するこの娑婆世界での出来事であったのか、或いは他方世界での出来事であったのかを先徳のお考えを基に見ていきたい。

経典『無量寿経』と釈文『凡夫見佛論』


 世自在王仏は錠光仏から数えて五十四番目に出現なされた仏陀である。ではその錠光仏は如何なる処に出現なされたのかというに、『無量寿経』には、

ほとけ、阿難に告げたまはく。乃往過去、久遠無量、不可思議無央数劫に、錠光如来、世に興出して、無量の衆生を教化し度脱して、みな得道せしめて、乃滅度を取りたまひき。

『浄土宗聖典』望月信道編(浄土宗聖典刊行会)178頁

と云って、錠光仏が出現された処を単に「世」として何処の「世」なのか明白ではない。
 近年浄土宗から出版された『現代語訳 浄土三部経』には、

 今を去ることはるか昔、計り知れないほどの過去の世に、錠光如来〔というみ仏〕がお出ましになった。数限り人々を教え導き、〔迷いの世界から〕解き放ち、みなに覚りへの〔揺るぎない〕境地を得せしめ、そうして初めて〔この世から〕お隠れになった。

『現代語訳 浄土三部経』浄土宗総合研究所編 37頁

と云って、錠光仏が住していたのは「この世」であると補筆して訳している。同書によれば、阿弥陀仏の本願はこの娑婆世界で立てられたと見てとれる。

 次に大内青巒居士演訳・安藤正純和解の『無量寿経訳解』には、

 さて釈迦如来が阿難に仰せらるるには、無量、不可思議、無央数劫の昔、錠光如来といふ佛様が、この世にお生まれなされ、一切衆生を済度して、その御仕事が了りてから、御自身も遂に涅槃にお入りなされた。

『無量寿経訳解』大内青巒居士演訳・安藤正純和解(國母社)23頁

と云って、こちらも同様に錠光仏は「この世」、即ちこの娑婆世界で出現なされた仏陀であるからして、その未来仏で世自在王仏も当然この娑婆世界の仏であり、その弟子である法蔵菩薩も娑婆に世界に住されていたと考えられる。

 明治の高僧・浄土宗の中島観琇上人は、阿弥陀仏が本願を立てた処は

それは全く娑婆で在ったに相違ない

『凡夫見佛論』中島観琇(一音社)49頁

と云い、また

何故といふに、因位の法蔵は、未だ決して純粋なる無漏の境界でない、勿論『法蔵の発願は、既に初地の位に進んだときである』といふ、けれども初地は慚く分断生死を離れて、始めて極愛一子の大悲を発し得たときである
(中略)
その目的として救うべき衆生は、此の娑婆の中にあるのであるから『何うしても此の娑婆世界を離れる』といふことは出来ぬ道理である。

『凡夫見佛論』中島観琇(一音社)49頁

と云って、「極愛一子の大悲」を発す故に阿弥陀仏の救済目的がこの娑婆世界の衆生であるからして、この娑婆世界から離れた処ではないというのである。

 さらには『無量寿経』に説かれる

自ら六波羅蜜を行じ、人を教へて行ぜしむ。無央数劫に功を積み、徳を累ぬ。

『浄土宗聖典』望月信道編(浄土宗聖典刊行会)194頁

というような、法蔵菩薩の尋常でない修行を完成させたことについては、

若し之を浄土で行ふたとするならば、決して難行苦行は無い筈である

『凡夫見佛論』中島観琇(一音社)50頁

と中島上人は述べており、したがって阿弥陀仏の発願と兆載永劫の菩薩行は全くこの娑婆世界で行われたといえるのである。

『悲華経』に説かれる阿弥陀仏の前世

 『悲華経』では、娑婆世界の過去仏・宝蔵如来の下で阿弥陀仏は無諍念と号する転輪聖王として功徳を積み、最後は宝蔵如来から授記という成仏の確約をいただくという内容が説かれている。
 手元に『悲華経』の資料はないのであるが、夢窓疎石上人が『夢中問答集』においてその部分を引いておられるので、それをここに記載する。

宝蔵如来讃めて言はく、善い哉大王、当来阿僧祇劫を過ぎて、安楽世界において正覚を成じて、阿弥陀如来と号すべし

『夢中問答集』川瀬一馬〔訳註〕講談社学術文庫 33頁


 上記『悲華経』の本生譚の内容がそのまま『無量寿経』に説かれる以下の説示の一端を表しているのである。

或は長者居士豪性尊貴と為り、或は刹利国君転輪聖帝と為り、或は六欲天主乃至梵王と為り、常に四事をもて、一切の諸佛を供養し、恭敬したてまつる。

『浄土宗聖典』望月信道編(浄土宗聖典刊行会)194頁

 「或は刹利国君転輪聖帝と為り」とは『悲華経』の本生譚に類似する、即ちこれ阿弥陀仏の本願及び六度万行がこの娑婆世界での出来事であることを示している。

結論


 以上のように阿弥陀仏が法蔵菩薩の時に立てられた四十八願および成仏までの兆載永劫の菩薩行が、娑婆世界において行われたことであると推察できるのである。
 明治の浄土宗僧侶・原青民上人いわく、

 此國土は弥陀如来に有縁の地なり、如来の有縁の地なるが故に其土の衆生は如来摂化の愛子なり

『青民遺書』原青民(千樹草堂出版)9頁

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