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蘭渓道隆上人の語録から考える弥陀浄土の所在

『蘭渓録』に収められた道隆上人の一説

 蘭渓道隆上人は鎌倉にある建長寺の開山として知られる渡来僧である。道隆上人には上人の法話などが録された『蘭渓録』なる典籍がある。この『蘭渓録』に彭丹博士が現代語訳を施した書籍があり、それを拝読していたところ気になる言葉があった。

道は遠きにあらず、きわめるのは人である。ただ難しいのは一途に進むことができないこと。だから、対面しているほど近くても、一途の心がなければ千里より遠く、足を踏み出そうとすればすぐ様々な俗念に妨げられる。

『蘭渓録』 蘭渓道隆禅師〔原著〕/彭 丹〔訳〕

道は遠くにあるのではない。それを究めるのは人である。ただ恐れるのは、それを専一できないことだ。たとえ向かいあうほど近くても、一途の心がなければ千里よりも遠い。

『蘭渓録』 蘭渓道隆禅師〔原著〕/彭 丹〔訳〕


 この道隆上人の言葉が「浄土三部経」に説かれる思想と非常に密接に関わっているように思えたのでここに記してみたい。

『無量寿経』に説かれる浄土と『観無量寿経』に説かれる浄土

 『無量寿経』と『観無量寿経』は共に阿弥陀如来とその仏国土たる極楽浄土の存在を説く経典として有名である。しかしながら、上記二経の中でそれぞれが説く弥陀の浄土ある処に相違があり、そのどちらをもって主とするのであるか疑問となる。
 それが以下の一説である、

法蔵菩薩、いま已に成佛して、現に西方に在しませり。此こを去ること十万億刹なり。

『無量寿経』

阿弥陀佛、ここを去ること遠からず。

『観無量寿経』

 一方は弥陀の浄土は「西方十万億土」というこの娑婆世界からは途方もない処に存在すると説かれ、もう一方は「去此不遠」(ここを去ること遠からず)として娑婆世界にいる衆生の近くにあるとするのである。

道隆上人の説示から考える

 二種の浄土経典の相違は先に取り上げた道隆上人の説示によって会通することができると思う。
 道隆上人は面と向かっていても「一途の心がなければ千里よりも遠い」と云っている。この説示から浄土は現前にあっても仏への専注する心がなければ、その所在は遥か遠く隔たっており、目の前に雲がかかっているようであると考えることができる。
 また逆に考えることもできよう。つまり浄土がどこまでも遠く隔たっていたとしても、専一なる心があれば、それは目の前に在るのと同様であるということである。

浄土の所在 

 結局は浄土は遠くに存在していても目の前に存在していてもどちらでも構わないのである。よく浄土に関して「唯心浄土」(聖道門・禅門系)と「指方立相」(浄土門)の議論があるが、実はそのようなことは関係なく、あくまでもこちら側の信仰における問題である。信仰心を脇に置いて浄土の所在を論じても、所詮は道隆上人が云うように「唯心浄土」であろうが「指方立相」であろうがそこに浄土は無いも当然なのである。


 


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