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輪廻転生の正体~仏教は業による果報を説く~

衆生の本体

 仏教では無我を説き常住不滅の魂は説かないのであるが、それでは一体何が輪廻して生まれかわるのか疑問がある。
 それは身・口・意の業によって来生があるという。

阿含経

 『阿含経』において以下のように説かれる、

〔神いわく、―〕
「何が人を生まれさせるのか?人の何ものが走り廻るのか?何ものが輪廻して堕しているのであるか?人の帰趨とは、何であるか?」
〔尊師いわく、―〕
「妄執が人を生まれさせる。人の心が走り廻る。生存するものが輪廻に堕している。行為(業)は、人の帰趨である。」

『ブッダ神々との対話』中村元〔訳〕 岩波文庫 84~85頁

「ひとが身体でなし、またことばやなすところのもの(=業)―それこそ、かれ自身のものである。人はそれを取って受けて、行くのである。
それは、かれに従うものである。―影が人に従って行くように。
それ故に、善いことをして、来世のために功徳を積め。功徳は、あの世で人々のよりどころとなる。」

『ブッダ神々との対話』中村元〔訳〕 岩波文庫 200頁

 衆生が為すところの三業によって、新たな五蘊(精神と身体)が形成されて後生があると仏は仰せである。

正法眼蔵

 永平道元上人の『正法眼蔵』の「深信因果」や「三時業」には、仏から数えて十九祖にあたる鳩摩羅多尊者の問答引いている、

 第十九祖鳩摩羅多尊者は中インドに行った。闍夜多と名づける大士がいて、問うた、
「我が家の父母は、もともと三宝を信じておりますのに、以前に病をわずらい、なすことすべてが、思うままになりません。ところが我が家の隣の家は、久しく破戒の殺生の行為(旃陀羅行)をしてまいりましたのに、身体はいつも壮健で、なすことはうまくいっています。彼らは何の幸いがあり、我らに何の罪があるのでしょうか。」
尊者はいった、
「何の疑うところがあろうか。そもそも善悪の報いに、〔順現法受・順次生受・順後次受の〕三時がある。あらゆる人は、ただ徳がある人が若死にし、粗暴な者が長生きをし、また反逆者がよい結果を得、義理に生きる者が不吉な結果になるのを見て、そこで因と果はなく、罪と福の結果は実体がないと思い込んでいる。影と形や響きと音とが互いに応じて、一本の毛先ほどもずれることがないことを全く判っていないのである。このことは百千万劫の無限の時を経過しても、絶対に磨滅してしまうことはないのである。」
その時、闍夜多は、この言葉を聞いて、一気に疑いが解消した。


『原文対照現代語訳 道元禅師全集 第九巻正法眼蔵9』石井修道〔訳註〕 春秋社 55~56頁

 生まれかわりというと不滅の魂のような実体が別の存在に乗り移るような印象を持つが、仏教では業(行為)が衆生の正体であり、その業の如何によって六道及び四聖の生を受けるのである。三業が次の五蘊を形成するというのである。
 容易には理解し難い内容ではあるが、そもそもとして凡夫である衆生が仏の説くところの教説を完全に理解することなどは不可能であるから、仏や菩薩・阿羅漢の教えを信じて行く、それが仏教という宗教であろう。

仏言わく、

尊敬さるべき真人たちに対する信仰を財とし、安らぎに至るための教えを聞こうと願うならば、聡明な人は(ついには)いろいろのことについて明らかな知慧を得る。

『ブッダの真理のことば・感興のことば』中村元〔訳〕 岩波文庫 191頁


 

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