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山崎弁栄の阿弥陀仏五類説

弥陀の異方面(『辨栄聖者御講述 弥陀教義』山崎弁栄口述・鈴木憲栄筆記)

浄土宗・山崎弁栄講義録
『辨栄聖者御講述 弥陀教義』(山崎弁栄口述・鈴木憲栄筆記 光明修養会近畿支部発行)

①実体の弥陀

 宇宙と弥陀とは如何なる関係があるかを吾人は知りたく思う。之れ弥陀の形而上論である。
 宇宙全体が弥陀と如何なる関係があるか、実体は何物が有するやとの問題は実体論の要求する処である。此時には弥陀他力の実体と云い、宇宙真如実体という。宇宙の実体が弥陀の実体である。
 実体―①本質②量度
 真如海中には生仏の仮名を絶す。真如海中に入れば仏も衆生も
同様である。いづれも共に真如の力である。真如を離れてはいづれも無い。即ち大きな力によって、小さい力が摂せられ、大いなるものに帰するのである。

②独尊の弥陀

 形而上、宗義学の要する弥陀である。
 人間全体我である。之に中心がある。神経中枢統一の自我がある如くである。
 宇宙には絶対的唯一独尊あり、之は神経の統一あるが如く、宇宙を統摂する独尊を認む。これ有神教的宗教の要求は宇宙の中心ありとする。これ独尊である。
 独尊の理法によって万物は統一され、万物は之れに帰趣するのである。独尊は君の如く一切万物を支配する。即ち一定した規則の下に統一され、衆理の帰する処が無ければならぬ。例えば人間の子供を育て行けば親の如くなる。親よりは大きくならないが、育てれば親と同様の用きをなす様になる。
 吾人には仏性があり、報身の力に養われて諸仏同体の仏となる。しかし養育しなければ諸仏と同様になることができない。独尊は理法と力とをもって一切を統摂し帰趣せしむ。
 冏師の十八通に「弥陀は念仏三昧の主となり玉いし後は遠々久々の諸仏も皆阿弥陀の三昧によって正覚を成じ玉えるにてあるなり」と。又「弥陀は無量三昧の所宰、三世法門の主上なり。前仏も後仏も皆無量三昧の所感なりと云はば、皆弥陀の長子と云わるべきものなり」とあり。
 弥陀は諸仏の帰趣する所。即ち諸仏の本体である。若し弥陀仏は宇宙の大支配者の下にあるものという時は、弥陀より更に大なる中心支配者に帰すべきこととなる。然るに弥陀仏は一切諸仏の帰趣する処、独尊である。故に宗教宗議上、形而上学に於て要求する弥陀仏は宇宙の独尊であって、一切諸仏を統摂すと云わなければならぬ。

③三昧の弥陀

 宗教安心起行の客体として要求する所である。
 これ念仏三昧中に観見する仏である。三昧の対象となって現わるる仏は化用の仏、随類の仏である。形而上の仏ではない。
 観経に「或は大身を現ずれば虚空の中に満ち、或は小身を現ずれば丈六八尺なり」とまた「如来は是れ法界身、一切衆生の心想の中に入り玉う」とあり。
 この三昧中所見の仏は客観的の仏であるか、主観的の仏であるかというに、これは主観的客体である。若し客観的に現わるる仏であると云はば、万人悉く見らるべき筈である。然るに今は主観中に見る仏、即ち客体である。三昧中の仏は意識界に於ける法界の仏、即ち意識的の客体であり、客体化して見ゆるのである。絶対の中より自己の心に入りて向うに見ゆるのである。真言では加持身という。水に月の宿る如く、衆生念仏すれば、仏是を聞き玉う等、吾と仏と合一したるしるしに見ゆるのである。
 「仏身を見る者は仏心を見る」と云うについて、冏師は、
「観仏―相見 念仏―心中」
観仏の人は自分の心の中に仏の相を取る。念仏の人は仏の心の中に居る。故に観仏の人は仏と離れているが、念仏の人は仏の心中に住するが故に仏と離れない。註十八通の本文(浄全十二巻、七六四頁)
  観仏の行人には仏行者の心中に影現し玉う。念仏衆生は忝くも仏心の中  
  に居住す。当に知るべし、影現は時有り、居住は間無し。
これは心理中に見る仏、心理論中にて云う弥陀である。

④伝承の弥陀

 宗教系統歴史の要求する所である。
 彼の婆羅門教は、梵天の中より出たものであって、この民族のみ此教を受く可く、救わるべきも、他の民族は救わるる権利がない。又其教を受けても効がないと、血統的に宗教性質を有するをいう。
 日本の神道の如きも、日本民族は神の末である。外国人は神の末でないから、人間でないように思っている。
 釈尊の宗教は、宗教的血脈を尊ぶ。即ち吾々の信仰しておる阿弥陀仏は元祖大師の信仰せられた阿弥陀仏。祖大師の信仰せられた阿弥陀仏は善導、道綽、曇鸞の信仰せられた阿弥陀仏と、系統を引くのである。而して阿弥陀仏は本願成就の弥陀である。同じ弥陀であっても真宗と浄土宗との間には相異がある。即ち真宗は一念帰命の当体に見る阿弥陀仏と云い、本宗の弥陀とは異なっておる。

⑤神話の弥陀

 幼稚なる情的信仰に要求する所である。
 悲華経の中に阿弥陀仏の本生譚がある。往昔、無諍念王が宝蔵如来のみ所に詣でて願を発し、西方に浄土を建立し無量寿仏となられた事が説かれておるが如きのものがある。
 又法華経には大通智勝仏未だ出家せられない時、十六人の王子あり、其第九が弥陀であると説いている。
 是等の本生譚は阿弥陀仏の摂化の方便であって即ち化用である。



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