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浄土宗・山崎弁栄の四大智慧

四大智慧(四智)

仏教における四大智慧(四智)は唯識の中で扱われる考え方のようであるが、私は唯識に関しては門外漢なので、ここではあくまで浄土門から解釈された思想を取り上げることとする。

四大智慧(四智)は浄土門の仏教者が目立って取り上げることは多くはない。したがって大々的に解説したりするような著作も少ないであろうと思われる。
 しかしながら浄土宗の山崎弁栄上人はこの四大智慧(四智)を主軸に仏教哲学を展開している。四大智慧(四智)は阿弥陀仏が宇宙全体を照らし出して衆生の知見を明かす相であるという。
 弁栄上人がお隠れの後、『無辺光』なる未完の草稿が遺稿集として発行されており、四大智慧(四智)の解釈を500頁に渡って長々と解説されている。しかもこの『無辺光』は未完の草稿ということもあり、所々同じような文章が連なっていたり、仏教用語の使用法やその意味のとらえ方も極めて独特で難解、通読するのが容易ではないということである。私も何度か通読しているが、今だによくわからない部分もかなりある。   
 したがってここでは煩雑になることを避けるため『無辺光』を主なる資料とせず、弁栄上人が四大智慧(四智)を簡潔に解釈している別の著作を資料として取り上げる。

まず弁栄上人の『大霊の光』を窺うとこうである、

大円鏡智……宇宙全体に照りわたれる処の大智慧が鏡の如くにてあれど、吾人の観念は自分を本として世界万物を外界の物として見ている。もし如来の鏡智と合する時は、吾人の観念が宇宙心と一体となるから、あらゆる天体無際の星宿も悉く自己心中の物々と観じられるに至る。
平等性智……如来は宇宙の根底を理性としている即ち本源の自性である、然るに吾人は小我を根底としているから我と彼とを分別し世界をも外に認ている、もし如来平等性と合する時は本源の自性が顕われ大自覚大自我の我となるから宇宙全体が自己と悟れる。
妙観察智……宇宙一体中の万物なれば、一切の物々は相即している、又万物は相互に融合し交渉して相入り合う作用を持っている一が一切に入る、例えば一月天にあって影万水に浮ぶ如く一切が一に入る、天上無数の星宿は眺むる人の瞳中に入る、万物が相互に体において相即して用において相入して碍なきは妙智の用である、如来と衆生と感応し無尽々々の法界を凡夫一念中に相入する仏心と凡夫心と交渉し入我我入の妙用より衆生の知見を開き、仏界に悟入せしむるはこの妙智である。
成所作智……客観には色声香味触の相と現じ、主観には視聴嗅味触の感覚作用となるのが本斯智であるが、吾人は自然界の粗末な相を見聞きしているがもし如来心と合し仏眼開く時は如来作智の妙用たる如来に妙色相好の身、また五妙境界の清浄土の荘厳をその見る色、聞く声として微妙美感ならざるはなし」
(『大霊の光』山崎弁栄山崎弁栄 光明会教学部34~35頁参照)

続いて『永生の光』を拝見すると、

日光は世界を照す如く、如来四智の光明、遍ねく十方の心霊界を照し、衆生の知見を開き、一切智を与え玉う。四智とは、
一、大円鏡智 例へば、日光出づれば地上の山河大地乃至一切の万物悉く顕わる如く、如来鏡智の光にて衆生の無明照破せられ、十方三世一切の依正色心悉く現前す。
二、平等性智 我らが吾我分別の迷を照破し、各自の自性は本来清浄にして諸仏と同一平等なりと自覚せしむ。
三、妙観察智 如来我に入り、我れ如来に入り、また如来の身口意の三輪わ我らが三業に渉入し、我らが迷の意識は転じて仏智と相応せしめ一切種智を与え玉わる。
四、成所作智 我らが汚れたる心の眼から五眼も汚れ依って不浄の五塵界を感ず。若し斯智に同化せらる時は仏眼乃至仏身と成るが故に、諸仏と同じく相好及び清浄国土を実感す。
斯四智は凡夫の無明の阿頼耶識を転じて、仏陀の四智に同化し玉う光明である。
(『永生の光』山崎弁栄 光明会本部教学部9頁)

上記の引用文を要約すれば次のようである。
①大円鏡智
→我々の本地は如来であるから宇宙心と一体になって、一切万物は悉く自己の心中と観じる。
②平等性智
→如来の理性が我々の本源的理性であるから宇宙全体が自己と覚る。
③妙観察智
→一切万物は悉く宇宙一体中であるから、万物は互いに融合交渉作用し相即相入する。如来と衆生が感応道交し入我我入のはたらきとなって衆生が仏界に悟入できる。
④成所作智
→如来心と合意一することで、仏眼が開かれて視聴嗅味触などの感覚作用がそれまでの凡夫的粗末な相から妙色相好の五妙境界の荘厳を視る等の感覚作用となる。

さらに簡潔に述べるならばこうである。
①大円鏡智→一大観念態    
②平等性智→一大理性    
③妙観察智→一切認識の本源     
④成所作智→一切感覚の本源   
実は左側が報身としての四大智慧(四智)、つまり智慧が相となって衆生に対して現れてきたところを示している。そして右側は法身としての四大智慧(四智)、つまり智慧の本体であり、報身の四大智慧(四智)の出処となる。
①一大観念態(法身)―大円鏡智(報身) 
②一大理性(法身)―平等性智(報身)    
③一切認識の本源(法身)―妙観察智(報身)     
④一切感覚の本源(法身)―成所作智(報身)
弁栄上人は報身たる阿弥陀如来の根本に法身を観ており、法身は如来蔵そのものであるとしている。

一切萬法の原則の故に法身と云ひ自己に無尽の性徳を包蔵して万物を産出す故に如来蔵性と名づく。(『大霊の光』山崎弁栄山崎弁栄 光明会教学部15~16頁参照)

このような弁栄上人の四大智慧は『楞厳経』を基に展開される。
『楞厳経』の一節を窺うと

お前は、如来蔵中の、物質に即した真空と、真空に即した物質とは、本来清浄なので、世界にくまなく行き渡り、衆生の心の動きのままに、その能力の度合いに応じ、それぞれの業にしたがって発現するということが、まるでわかっていない。世間の無知の輩は、この道理に暗くて、因縁及び自然の性だとしているのであるが、これらはみな妄心による分別推量に過ぎない。もっともらしい理屈であるだけで、真実性は全くないのである(『仏教経典選14』荒木見悟〔訳〕)234頁)

このような見聞覚知は、その本性が円満に行き渡っていて、びくともするのではない。安定したはてしない虚空と、動揺変化する地・水・火・風と、(それに見聞覚知を加え)まとめて六大と名づけ、その本性は真実円満である。
いずれも如来蔵であって、もともと生滅のないことは、明らかである。
阿難よ、お前の本性は堕落して、お前の見聞覚知が、もともと如来蔵であることを悟っていない。だからお前は、この見聞覚知をよく観察しなければならぬ。それは生じるのか、滅するのか、同じなのか、異なっているのか、生減するのではないか、同異があるのではないか、と。
お前は、如来蔵中の、視覚の本質の澄明なはたらきと、そのはたらきを支える自明の本性とは、本来清浄なもので、世界にくまなく行き渡り、衆生の心の動きのままに、その能力の度合いに応じるということが、まるでわかっていない。眼根の視覚が、世界にくまなく行き渡っているように、聴覚と嗅覚と舌覚と身覚と意識も、その霊妙な徳があきらかで、世界に行き渡り、十方虚空に円満に存している。なんで一定のありかがあろうか。業にしたがってあらわれるだけのことである。世間の無知の輩は、この道理に暗くて、因縁及び自然の性だとしているのであるが、これらはみな妄心による分別推量に過ぎない。(『仏教経典選14』荒木見悟〔訳〕)254頁)

七大説

『楞厳経』は諸法(ありとあるもの)は如来蔵による色心二法とする。
中心教説は無意識的精神体にして万物を産出する如来蔵にして地大・水大・火大・風大・空大・見大(根大)・識大の七大説。

臨済宗の夢窓疎石上人が上記の『楞厳経』の七大説を解説されている、

ここでは仮に『首楞厳経』の教説の相(さま)について、大略申しましょう。かの経の中に七大を説明してある。七大とは、地大・水大・火大・風大・空大・根大・識大である。この七大は皆、如来蔵の中の性徳(本性のよいはたらき)として、十方法界にあまねく及んで、とどこおりなく自由に流通するのである。これを性火・性風等と名づける。真言宗の中で、六大(地水火風空識)が、法界にあまねく及んで、ありとあるものの本体だと説くのも、この意味である。ただし、真言宗では根大を説かない。根大とは、眼・耳・鼻・舌・身・意の六根も皆法界にあまねく及ぶという意味である。真言は、六大を法界の実体とする。『楞厳経』では、如来蔵をありとあるものの本体とする。七大は皆如来蔵が具えているところのよきいたらきだと説いている。これらはいずれも如来が、衆生の性質と機会とに応じて演べられた説法から来ている。真言では六大と言っても、縁によって生まれた水火等を意味するのでいない。『楞厳経』に性火・性水等と言っている六大である。
(中略)
識大というのは、衆生の心識である。それも、普通に凡夫が心だと思っているのは、縁生の心のことだ。経文の中に、これを縁心と言っている。この心にはすべて実体はない。六塵の縁によって、仮に見聞覚知の相がある。縁生の火の薪・油等の縁によって、仮に燃える相があるようなものだ。愚かな人は、単に縁心のみを知って、性心を知らない。外典(仏教外の書物)ないしは小乗の教えの中に心と言っているのは、皆、縁心のことである。大乗の中で、八識と言っているのも、やはりそれは縁心の分際である。それ故に、至極の大乗の中に第九識というものを立てたのだ。これはすなわち、性徳の識大を知らしめようというためだ。
諸法(ありとあるもの)というのは、色、心の二法である。七大の中で、識大はつまり心法である。その外の六大は皆、色法である。けれども、この七大はともに如来蔵の中に具足していて、互いに自由に流通しているからして、色・心の差別はない。これを、一真法界(極理)と名づける。差別ということはないが、色・心が紛れ乱れることはない。それ故に、の色法生滅盛衰の形相ではなく、また、その心法も動静起滅の転変はない。経文の中に、諸法(ありとあるもの)は実相で常住(不変)だと説いているのは、この意味である。凡夫の妄りな考えが起こる時には、この如来蔵は、虚妄の縁に随って、色・心諸法の相を現わす。凡夫の姿見が転変するがために、その考えるところの諸法もまた、皆転変の相が現われる。」(川瀬一馬〔訳〕『夢中問答集』講談社学術文庫 431~433頁)


まとめ

まず『楞厳経』と夢窓上人の説から七大説は以下のようになることが考えられる。
①地大・水大・火大・風大・空大・見大(根)=色法 
 ※夢窓上人によれば意識・末那識・阿頼耶識は色法の分際
②識大=心法(清浄無垢識・菴摩羅識)
→諸法(ありとあるもの)は如来蔵による色(物)・心の二法。
如来蔵=地大・水大・火大・風大・空大・見大(根大)・識大

そして弁栄上人の四大智慧と七大説によって次のようなことが導き出される。
①大円鏡智(総相)=一大観念態
②平等性智(総性)=一大理性
     ↓
識大(心識) 如来蔵の総相・総性→清浄無垢識

③妙観察智―大円鏡智・平等性智の内容を啓示するのが妙観察智。
=一切認識の本源
     ↓
色(物)・心の二法の両方に通じて作用
※橋渡し役 

④成所作智―大円鏡智を体として見聞覚知する成所作智。客観には色声香味触の相と現じ、主観には視聴嗅味触の感覚作用となる。
     ↓
=地大・水大・火大・風大・空大・見大(根) 如来蔵の別相(差別的※)
※差別的……万物の本体が一如平等であるのに対し、その万物に高下・善悪などの特殊相があること。

まだ研究の余地が残されているがひとまずここまでとしたい。


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