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キャベツの賞味期限+冷蔵庫=∞

子どもの頃、『おとなになればわかることだから』と、ありとあらゆることをはぐらかされて来た気がする。

酒は禁止されとるんじゃ、と食後に薬を飲んでいた叔父さんは、返す手で、ジッポライターをカシャカシャと鳴らしながらタバコに火をつけていた。

それとこれとは話が違うんよ、とチョコレートをねだったぼくの頭をぐりぐりしながら、父はバドワイザーのケースを買い物かごに入れていた。

何度か失恋してなお、女性から男性に向けられる『いい人』の価値がわからなかった一方、小説を読んでようやく合点がいったりもした。

おとなになってわかることは、想像していた以上に多い。そしてわかることが増えると、相対的にわからないこともどんどん増えていく。『なぜ』が『なぜ』を呼び、その連鎖に、はてはないように思われる。

だから子どもの頃、なぜ、という疑問に対して、ろくすっぽ大人が答えてくれなかったのかも、おとなになってからしみじみとわかる。その問いに対する答えをだれも持っていないし、だれも持っていないことは、おとなになってみなければ、決してわかり得ないものなんだということが、わかる。

さて本題。

どうしてキャベツの消費期限は、冷蔵庫に入れておくと無限に広がっていくのだろう。これは紛れもない事実だ。切った断面がほんのり黒ずむだけで、食感や風味が損なわれることはないし、一玉あれば野菜炒めの彩りや、スープの風味に欠かすことなく、一週間は過ごせる。

玉ねぎもそうだ。でも人参はそうもいかない。じゃがいもも、その肌に人間よろしく年を重ねてシワシワになる。

一方で、人参は切っておくとわりと長持ちする。汗をかくので密閉せずに、タッパーのふたを半開きにしておくと、まるで目に見えない風に乗る紙飛行機のように、想像以上の日持ちをしてくれる。

なぜだろう。

グーグル先生に聞いてみても、なんだか的を得た回答をしてくれない。

これはグーグルになればわかる、ということなのだろうか。

自炊は昔から好きだ。料理の鉄人を見て育ったし、どっちの料理ショーを見て、食えるわけでもないのにその結果を一喜一憂したこともあった。ぐるぐるナインティナインはもはやメシを食うだけの番組になったし、一方で面白かったバラエティ番組が末期にメシを食うだけの番組になって終わることもあった。夏休みになると、料理にふれる機会はぐんと増える。普段は見れない昼間の番組や、キユーピー三分クッキングなど、それが月金で続くのだからテレビには夢があった。

けれどもテレビは、夢を語るばかりだった。

こういった、『だらしのない料理番組』には、あまりお目にかかれない。

卵の賞味期限が最たるものかも知れない。冷蔵庫に入れておいた卵であれば、きっちり火を通すことによって、ラベルに印刷された日数よりも一週間程度を過ぎても、問題なく食べることが出来る。この期限とは、冷蔵庫に入れておいた場合の、『生食』に限るものであり、可食期限とはまったく別の話になるという。

だからといってこういう話をテレビで大々的にすると、視聴者の中にはソフトに言えば早とちりな人間もいるだろう。生食をしてテレビで言ってたことと違うじゃないか、という話になることは、想像に難くない。

そしてまた、玉ねぎもそうだ。

田舎育ちの母は、冷蔵庫に入れてはならない、という話をしばしば口にしていた。だがそれは、間違いではないけれども、21世紀においては正しくもない話だ。この玉ねぎに対する保存法は、冷蔵庫のなかった時代の話であり、風通しの良い暗所に吊るしておけというのは、冷蔵庫の誕生により陳腐化する……はずだった。

けれども人から聞いた話というものは、文字情報よりも強く伝わるらしい。この21世紀に手紙やはがきが廃れない理由も、文字の中に人が介在しているからだと思う。

冷蔵庫の放熱よりも、人のぬくもりの方に、人間はよりよい心地よさを感じてしまうのかもしれない。

そういった、ほんのささいな、『背筋を伸ばしたライフスタイル』から、一人暮らしという生態系をもってして外れてみると、また違った価値観を見いだせる場合がある。

平野レミ先生の料理スタイルは、だらしがないんじゃない?

と思うかも知れない。

しかしあれは、だらしを加えにかかっているのだ。こうすればより、だらしなく見えるだろう、というテレビ的なプロレスめいたなにかだと、ぼくは感じている。

本物のだらしなさとは、朝の食パンを焼かずに食べたり、ラーメンを器によそわず鍋から食べたり、プライパンの中の野菜炒めを片側に寄せて、空いた空間に白米を放り込んだり、パスタソースの袋を洗ってから、乾麺パスタといっしょに茹でたりする、およそ文明人とは思えないスタイルのことを言う。

本当なら二三日でキャベツも玉ねぎも、人参もじゃがいもも卵も、計画的に食べなければならない。土から離れた野菜たちも、根や葉の栄養をもって、その形を留めおこうとする生存本能がある。なにも冷蔵庫の魔術によってその生命が永らえているわけではない。野菜の持つ栄養によって、その姿は一週間、ひいてはもっと長期間保たれているのだ。

ここずっと、だらしのない生活が続いている。朝な夕なに寝て起きて、よく寝たと思ったり、寝すぎたと後悔したりもする。

しかしだらしのない生活から、違った価値観を見出すことも出来た。

食パンは生で食べたほうが美味しい種類もある。どのパンも値段とパッケージが違うくらいだろう、と思っていたが、各メーカー、だいぶ頑張っていることに気がつく。

鍋からラーメンを食べれば、洗い物が一つ減る。同様に、軽く水洗いしたパスタソースの袋を麺といっしょに茹でることで、水資源を守ることが出来る。

ことに最近、水を大事にしよう、というスローガンを耳にしなくなった。オリンピックの暑さ対策に水撒けばいいんじゃない? という案も飛び出たという。それほどに水がどこからか降って湧いたという話は、寡聞にして存じ上げないのだが。

野菜炒めも肉や野菜から出た旨味の凝縮した汁を、最後まで味わうことが出来る。まあこれは、『卵でとじるか、水溶き片栗粉を入れろ』という陳建一の言葉を守れば良いだけだが、やはり洗う皿は確実に一枚減る。

むしろこうした、だらしないことによって、世に迎合されるまたとない機会だ。ゴロゴロだらだらしたもの勝ちというのは、後にも先にもこれっきりだろう。

人類史もずいぶん長いが、これほどだらしなく生きてきた人間の記録もあるまい……と思ってみたが、さすが人類史。

一休宗純という先例がいた。

さすが一休さん。

あわてない、ひとやすみ。

未来が見えていたとしても、不思議のない人……かもしれない。

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