見出し画像

5円で旅行した伯母さんの話

まだ世間が平らかだった頃。

正月の集まりで鳥取へ帰省した時だ。宴会の席に母方の伯母さんが、大量の写真を持ってきた。数十年前の思い出に触れつつ、いよいよ写真を処分をしようという話だ。

写真というと、昨今ではスマートフォンでおさめた画像や、デジタルカメラでおさめたデータのことを言ったりする。そしておそらくあと100年、あるいは50年。もしくはもっと早い段階で、印画紙や、ネがフィルムの存在は、常識のエリアから外れてしまうだろう。

写真を一枚見比べても、白い縁があったりなかったりする。これがいつごろのタイミングで、なぜなくなったのか、昭和を長く生きてきた集まりに聞いてもわからなかった。尋ね方が悪いのか、グーグル先生に聞いても答えは得られなかった。写真マニア、フィルムマニアの人がいたら、ちょっと教えてほしい。

そしてそんな大小さまざまな数百枚の写真の中に、趣深い一枚があった。なかなかに笑える、コミカルな風景だった。

それをして、ぼくは言った。なんの気なしに言った。

「なあ、おばちゃんやぁ。なんぞあって、これは、こんな上等の『おべべ』を着とるんじゃ?」

すると伯母さんはゲラゲラと笑い出し、たまらず腹を抱えてうずくまり、それから笑いの中に、涙を浮かべ始めた。それが面白さのあまりに浮かべた涙でなかったことは、なんとなく察しが付いた。ほとんどが笑いに満ちていたが、ほんの一滴ほど、悲しさが混じっていたのは間違いなさそうだった。

その写真は時代を感じる、白黒の写真だった。

10人ほど、大半が子どもの写された一枚だった。その中に、会ったことはないが遺影でわかる、曾祖母の顔があった。とんだ鬼ババアだとうわさに聞く人が、満面の笑みで写っている。

そして背景には、モノクロだが、はっきりと、鳥取砂丘が写っていた。

ぼくの感じた疑問はこうだ。

ぼくにとって鳥取随一の景勝地たる鳥取砂丘は、そこから車で20分ほどの場所にある、なんだったら買い物帰りにちょっと脇を通って、今日も人が多いねなんて言えるような、ちょっとした大きな公園……程度の存在だった。

叔父に連れられて、ごわごわの毛並みを持つラクダに乗ったこともあるし、大阪に住む友達を連れて海岸線まで競争したこともある。ポケモンを捕まえに行ったこともあるし、砂漠に降る雪も見た。

だがいくつも思い出のある中、気を配って『良いおべべを着ていこう』などと考えたことは一度としてない。なんだったらそこらのじいさまなどは、軽トラに孫を積んで短パンにタンクトップ姿で行くような、そんな場所ですらある。

そこにドレスコードなどは、当然ない。

にもかかわらず、写真の中の少年少女たちは、揃いも揃って白黒の写真がスタンダードだったころに、ぼくにとっては近所の公園へ、襟にフリルのあしらわれたワンピースを着たり、胸にワンポイントの刺繍がほどこされたポロシャツなどを着て、緊張感ある硬めの笑顔を浮かべていた。

「こんな近所の公園に、なしてこんな晴れ着を着ていく必要があるんじゃ? なんぞ式の帰りにでも寄ったんか?」

と聞くと、伯母さんは涙を浮かべながら、笑い混じりに説明してくれた。

……この写真は、大阪のお姉さん――伯母さんから見た伯母さん――が、珍しく尋ねに来てくれたときの写真だ。ここに写っているのが60年前の私で、そのとなりがお姉さんの連れてきたいとこ。このすみにいるのが私のおねえさんで、反対のすみにいるのがあんたから見たひいおばあさん。

せっかくお姉さんが来たんだから、なんぞ観光でもして行きんしゃい、という話になり、今も昔もなにもない鳥取に、ゆいいつある観光地へ行くことになった。その当時の移動手段といえば徒歩。車なんか社用車かトラックばかりで、家族で乗りあうような自家用車など、まだ夢のまた夢だった。

なので汽車(電気で動かない列車。21世紀になってもJR鳥取では現役)に乗って、そこからバスを乗り継いで鳥取砂丘へ行くことにした。

その時の汽車の運賃は大人が10円。子どもはその半額でたったの5円。

ただ汽車なんてめったに、本当にめったに乗るものじゃなかったし、近くにある神社へどんぐりを拾いに行く……なんてこととはわけが違う。そこにはよそから集まった人がたくさんいるし、なにより電車に乗る。人目につくような行動をしなきゃならんこともあって、とにかく上物の、それこそ結婚式へ出るような洋服を着て行くことになった。

その時の一枚が、これ……という話を、涙混じりにしてくれた。

それを聞いてぼくは、なおのこと笑い転げた。

伯母さんをほんのちょっぴり傷つけてしまうだろうなあと思いつつも、笑いをこらえることが出来なかった。

あんな、『砂丘くんだり』まで行くのに、こんなてんやわんやでエエおべべを着ていくような時代があったんだと思うと、おかしくておかしくてたまらなかった。そしていくら時代が経っても、『近所の大きな公園に行くんだから良い格好をしなきゃ』という感覚は、二度と得られないんだろうなとも思った。

似たような感覚があるとすれば、ディズニーランドやユニバに行く時くらいだろうか。行ったことはないが、行った人はみなコスプレに近い格好をしていた。それに近いのかもしれないが、けれどもやはり、あんな砂丘くんだりに洒落込むような考えは、半年前から予定を建てても組み込まれるとは思えなかった。

ただそうして時代を経ることに、特別だったことがそうでなくなることは、もっとあるだろうし、そしてこれから、次々に生まれていくだろう。

笑い話として下駄を脱いで乗っていた汽車……ひいては電車ですら、もはや毎日利用することが当たり前になった。特別だったラジオが当たり前になり、そして今では面白みにかけるものとして、すたれつつある。

テレビでさえ、陳腐の沼に片足を突っ込んでいるような状況に近い。

そうしていつの日か巡り巡って、かつて当たり前だったことに、泣かされる日が来るだろう。

その時、昔泣かせてしまった伯母さんの話が出来たら、次世代の若人に人間ずいぶん進化したなと感じさせることが出来るかもしれない。

当たり前な存在はありがたいし、かつて特別だったものは、なおありがたいと言えるかもしれない。いま身の回りにあるほとんどのものが、ほんの50年前には夢にも見られなかったものだろう。

振り返れば、そういったものに囲まれて生きているんだと、一枚のモノクロ写真と、思い出話に教えられた。

なるほど温故知新とは、本当に言い得て妙である。


*写真は5年前に旅行したときの鳥取砂丘の写真……もといデータの一枚です。手前にいる人と奥にいる人の大小で、その広大さがなんとなくわかると思います。さすが日本一の砂きゅ……猿ヶ森砂丘の話はちょっと勘弁してください…。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?