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料理の鉄人というよりも、料理の鬼だった陳建一。

 日本におけるもっとも著名な料理人の一人が、陳建一その人だろう。専門は中華料理。肩書をして鉄人。タンパク質と水分で出来た鉄人と呼ばれるような人は、衣笠かバーチャファイターの上手い人か、この人くらいだろう。

 近年の鉄人は、料理番組よりもバラエティ番組の中で行われる料理企画で顔を見ることが多い。その名を挙げるきっかけとなった、料理バトル番組『料理の鉄人』における負け役のように、料理をしつつお笑いを担うような立場で出演する……という笑いのニュアンスを含んだ人として表現されていることがままある。

 もちろん、ある種のお約束としての話だ。最終的にはその卓越した料理の腕を称賛され、やっぱり鉄人はすごい、という形に丸く収まる。

 そう、鉄人はすごいのだ。その腕前にかかれば、街によくあるスーパーマーケットを三ツ星ホテルの冷蔵庫に変貌させ、見慣れた食材をあっという間に高級グルメへと仕立て上げる。ひたむきに研鑽してきた技術は、もはや魔法と区別がつかない。

 ただこの鉄人、ただの鉄人ではない。

 鉄で出来た体の中に、鬼の心を宿している。

 鬼とは言い得て妙な存在だ。ある時は人々を脅かす恐怖の存在として表現される一方で、その道のスペシャリストをして、鬼と呼ぶことはある。フルメタルジャケットのハートマン軍曹はスペシャリストとしての鬼だし、坂田金時が打ち滅ぼした酒呑童子は、文字通り悪魔としての鬼だ。世の中にはキックの鬼もいる。

 なぜそう称されるかは、そこに宿る理にかなった恐ろしさが理由だろう。考えもつかないような、けれども言われてみると理路整然とした真理の一つを、やすやすと突きつけられる時、人は自身の無力さを感じ、同時に対面する相手の底知れなさに畏敬を覚えるものだ。

 イチローなんかも、野球の鬼だろう。こうすれば、こうなる。スイングスピードを一定の速度に保った時、バットの角度を2度変えると、物理の法則によって打球の行く末を右や左に操ることが出来る。この理論は正しく、けれども実践するのは容易いことではない。だがイチローは自身の理論が間違っていなかったことを、数字という確たる証拠を元に証明した。

 人間離れしている。この人間離れっぷりが、人あらざる鬼と称される理由の一つだろう。

 さて本題。

 料理の鉄人・陳建一は、人間離れした能力を有している。

 昔、ドキュメンタリーでその人を見た時のことだ。

 たとえば、塩は何味がするだろうか。そう、しょっぱい。では砂糖はどうだろうか。そう、甘い。醤油や味噌は、醸造工程により、しょっぱいものや、逆に甘みを感じるものもある。

 ではそれを、どこで把握するか。

 舌だ。舌で感じたことを記憶して、舐める前から砂糖は甘いものだと思うし、塩はしょっぱいものだと感じる。梅干しを見ると唾液が自然とこみあげてくる。目や脳に味覚があるのではなく、あくまで経験に基づく、記憶の再現が行われているだけだ。

 鉄人はある時、職場である厨房での仕事を終え、一人の弟子を呼んだ。

「じゃあちょっと、野菜炒めを作ってみろ」鉄人はそう言った。

 弟子の腕前を確かめる、職人気質の現場でよくある光景だった。弟子は適当な野菜を切り、肉を切り、それらをささっとまとめあげて、トンと皿の上に盛り付けた。鉄人はじっとその姿を見て、うんうんとうなずいていた。

 完成した野菜炒めを、弟子は鉄人の前に提出する。鉄人は差しだされた料理をじっと見て、その瞬間、鬼の牙をむき出しにした。

これは美味しくない。キミの腕前からするに、たぶん美味しいだろうけど、美味しくない

 出された料理に対して、箸も持たず、そう言い切ったのだ。

 最初、よくある話のように見えた。師匠が弟子を怒鳴りつけるのは、見慣れた、あるいは聞きなれたおなじみの話だろう。そうして頑固者の元で修業を重ねて、ゆくゆくは立派な一人前になる……というのが、職人と呼ばれる人たちに対するイメージだ。

 鉄人は弟子が料理をするさまを、じっと見ていた。野菜の切り方から肉の炒め方、味付けに使われた調味料の種類とその量を、横からじっと見ていた。だから完成品の味は、なんとなく察しがつくのだろう。なにかを入れ忘れたか、あるいはなにかが余計だったか。舌で味わう必要は、もはや鉄人の手腕にとっては、無用なのだろう。

 さすが鉄人。そんなふうに考えながら、画面に目をこらす。

 だがその考えは、間違いだった。一瞬見えたのは鬼の牙の先端だった。

 その本質である心が、まもなくくりだされる。

 その瞬間、ぼくはうなった。

ほら、見ろ。ここに旨味が残ってる

 鉄人は、野菜炒めの盛られた皿を、軽く、ほんのわずかだけ傾けた。すると低くなったくぼみへ、茶色い液体が、物理の法則によってスーッと集まってくる。鉄人はその段階になってようやく箸を持ち、集まった液体に浸して、それをペロッと舐めた。

ここに、ここにこそ、野菜や肉から出た旨味がある。この状態の野菜炒めでは、これを味わうことは不可能だよ。だから水溶き片栗粉でとろみをつけるか、卵でとじる必要があったんだ

 半分、料理番組として見ていたドキュメンタリーは、けれどもやはり、ドキュメンタリーだった。人の生きざまが描かれたノンフィクションであり、その生きざまは、理路整然とした、物理や科学に基づいた、鬼のようであった。

 料理のイロハを見聞きしてうなり声を上げたのは、後にも先にもこれっきりだ。間違いなんてことはなく、正しく、正しすぎるがゆえに、それを味見もせずに突きつけられた弟子の立場を思えば、きっとぼくはごめんなさいと言いながら泣いていたと思う。

 それ以来、ぼくにとっての水溶き片栗粉は、マーボーを作るためだけのものではなくなった。その性質や作用は知っていたが、用法まではその瞬間まで教わったことがなかった。

 だから丸美屋やCockDoのような中華料理の素は、パウチの中でトロッとしているのだろうし、中華の定番トマト炒めに卵が添えられているのだろう。大陸文化も内包する沖縄料理に卵でとじたチャンプルーが多いのは、単なる風習や文化でなく、数千年の歴史がはぐくんだ、『理』なのだろう。

 鉄人の座右の銘は、『料理は愛情』だという。

 鉄人はそれから、改めて野菜炒めを食べて、美味いと言い、そして旨味の詰まった液体に浸して食べ、なお美味いと言った。

 弟子は精進します、と言い、鉄人は笑った。

 そして葉加瀬太郎のバイオリンの曲が流れてきた。


*補足……料理の鉄人において、初期はいわゆるテレビ的な負け役であったが、以降は最長連勝記録を誇るなど、鉄人の名は、やはり伊達ではない。最初、純粋に敗北していた可能性……? うーん、まあ、昔のことだから……。

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