ヨルシカ『ルバート』歌詞考察
ヨルシカの18枚目のシングル『ルバート』についての歌詞考察を記録したい
この手の歌詞考察記事は前半にダラダラと御託を並べて、肝心の考察部分が遥か下に追いやられることが常なので、最低限の前置きを2つだけ話す
①
まず、多くの人がこのルバートという曲を
別れた彼を忘れられず「楽しい」という自己暗示によって抗っているが、そのカリソメ自体が私自身を余計に苦しめている
と解釈しているように思える
確かに、笑顔を取り繕って彼を忘れようと空元気で振る舞う女性は悲劇的で、どこかしら狂気のようなものが発せられるし、ルバートのもの悲しい曲調と相まって異様な魅力を放つ
しかし、私は敢えて逆の解釈に挑戦したい
すなわち、忘れられないほどに彼を愛していたはずなのに、その記憶が「平凡な楽しい每日」によって徐々に上書きされている恐怖を歌っているのではないか、ということである
②
この曲の象徴であるレコードが何を表しているかについても先に触れておく
これは文字通り、各々の人生の記録を表しているのではないか
様々な経験や思想を経てこの自分のレコードを充実させ様々な音色をもって完成させるのが生きる目的、その解釈を前提にこれからの考察を眺めてほしい
一つ一つを考察する形だと果てしなくなってしまうので、私なりの意訳を挟んで記事を進める
ちょっと楽しいことと
ちょっと苦しいことを
繰り返す喜劇でも悲劇でもない平凡な日々の中
自由なテンポ(ルバート)で進んでいる私は受け入れられやすいタイプじゃないから、みんなからはダサく見えるのかもね
死別した彼との悲しくて愛しい記憶を
今私は忘れようとしてしまっている
何度も思い返した大切な記憶のはずなのに
太陽が毎日昇って世界を照らすような飽きのこない充実したモノを、人生の中で必死に探してきたはずなのに
振り返った時に思い出されるのは、版を押したような「楽しかった1日」ばかり、楽しい、楽しい、楽しい
満月みたいに輝く他人の人生(丸いレコード)を見ると悲しくなるな
少し欠けてしまえば良いのにとさえ思う
対して、私というレコードを聞いて、みんなは嘲け笑うばかり、センスのない私の人生を馬鹿にする
あんなに悲しいことがあったのに、それを忘れて新たな楽しい音楽(出会い、経験)を私のレコードに刻もうとしてしまっている
こんな何者にもなれないひどい人生(レコード)を今すぐにでも遺影にして終わらせてしまいたい
神様にお願いするみたいに、なんの目的もなく生きてきたわ
でも毎日を楽しいと思ってしまうことを止められない、楽しい、楽しい、楽しい
彼の笑い声が聞こえた気がした。ダサい私が立ち止まって耳を澄ましても
もう彼の音は聞こえない、彼の仕草や声を思い出せない、静寂に包まれる
少しずつ忘れようとしてしまっている
そんな私みたいな馬鹿でも彼を愛したことは本当だった!
まるで踊ってるみたいな…踊るような毎日を過ごしていて…
あれ、本当に、愛していたんだっけ?
充実しようと毎日を過ごしていたのは確か
太陽が毎日私たちを照らすみたいなことをね
振り返った毎日は、もう「楽しかった」というスタンプで塗りつぶされている、楽しい、楽しい、楽しい
私が必死に過ごしたはずの人生はどんどん忘れられていく
脳が生み出す「楽しい」の一言で上書きされていく
楽しい、楽しい、楽しい…
まとめ
どんなに過去に辛いことがあって落ち込んでしまっても、時間と共にその痛みと記憶が薄らいでいく
そしてまた楽しいと思える毎日が訪れるのだとしたら、あの時必死にもがいて苦しんでいた時間は嘘だったのか、虚構だったのか、ただ一人でピエロのように踊っていたのか
自由なテンポ(ルバート)で進んできた私の人生は一体何か意味を生んだのか?
そんな、曲だと考察しました!
色んな解釈が出来てヨルシカの曲を聴くのが楽しすぎる
他にも考察あれば教えてください
スキをもらえると励みになります、よろしくおねがいします🦀
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