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Vultures not Vultures

巨人が鏡に映った自らを見ることはできない。

古い諺、あるいはdonda west

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kanye west & ty dolla sign。
差別的、保守的な言動によって音楽業界内外からの痛烈な批判を受けた有名ラッパーによるドッキングアルバム、“ Vultures 1”が先日2/9にYZYレーベルからリリースされた(もちろんユニバーサルミュージックやG.O.O.D. MUSICからのパブリッシングではない)。
コラボネームでの作品とはいえ一線上から退いていたyeにとっての実質的な復帰作と呼べる当作は、ティージング、リークの段階から大きな期待が寄せられ、ファンダムの関心の対象は多岐に渡った。フィーチャリングアーティストやプロデューサー、もしくはサンプリングやリリックの意味から彼の反省(あるいは反抗)を読み取ろうとしたのだ。以前の炎上を反映し、クワイアとのコラボレーションによって旧来の信心深い黒人コミュニティへの帰属を示したアルバム“JESUS IS KING”や、アルバムアートワークや曲の制作環境から自身の精神障害と向き合い長い時間をかけて生み出し、自らの名を冠したエッセンシャル“ye”のような、現実との対面や自己規制、独自の美学からもたらされる独自のスタイルを期待していたマニアも多かっただろう。また、初心を見つめ直す意味での初期の名作“The College Dropout”のようなクラシックなヒップホップ作品を待ち望んでいた人々も存在する。
種々の思惑入り混じったまなざしのそそぐ中、DONDA期の、過去と向き合い作品と組み合った、重厚で入り組んだ精神性を感じさせるようなものでも、映画監督をビジュアルディレクターに雇いドレイクとの長年のビーフを(形式上)回復したFree Larry Hooverコンサートのような社会的、産業的な意味を持つものでもなく、saint pabloツアーやyeezusツアーのようにビジネスに迎合しながらも表現、パフォーマンスの可能性を模索したものでもない、小規模な「リスニングパーティー」が開催された。今までスタジアム規模のライブも行ってきたyeによる、'00sのオールドスクールなステージを思わせるような極小規模のギグは、表面だけ見ればリスナーにとってのラッキーな機会に過ぎないのだが、一歩踏み込んでみることで見えてくるものがある。

なぜVultures gig(あえてそう呼ぶ)がある種の残酷さや惨めさを孕んでいるのか。


双頭の鷲の旗の下に。
妥協(アウスグライヒ)により成立した多民族二重帝国、オーストリア=ハンガリー帝国を象徴する楽曲であり、反ユダヤ主義の民族主義作曲家、ワーグナーの名作でもある。示唆に富む。反ユダヤ主義的発言によってキャンセルカルチャーの犠牲となり、ty dolla signとチームアップしたyeがVultureに自己を投影するのは、歴史を省みずに自己の主張を押し通すための愚かしい行為に過ぎないのか、それともlift yourselfなどに見られる自己言及的なアイロニーか?

アイロニーはナードにならずに物事を伝えるたったひとつの方法である。

ヴァージル・アブロー

アイロニックでい続ければいるだけ自己はすり減っていく。US・UKラップシーンや黒人コミュニティに根付くマチョイズム、ストレートな感情の発露に対する嘲笑に近い感情が、こうした回りくどい皮肉屋な態度を引き起こしている。クィアに対する嫌悪感や、ナードへの距離が生まれるのも、こうした社会に染みついたバイアス、雰囲気によるといってもいい。
今回のケースでは、yeは自らを「利権独占的社会に切り込む論客」あるいは“woke critics”として位置付けているのだろう。事の発端となったかに見えるのはユダヤ人差別的発言だが、以前のトランプ前大統領との接近や大統領選出馬などに見られる保守労働者的開発精神に既に彼の政治的危うさをのぞかせていたのである。さらにそうした非専門的な浅い歴史的観察に加え、BLACK LIVES MATTER運動に対してWHITE LIVES MATTER とプリントされたメッセージTシャツを着用してカウンターを喰らわせたつもりになってしまうような精神的未熟さが結びついている。彼は旧来の宗教的起源により富裕を独占する一定の層(欧州全体に蔓延するユダヤ人に対する差別感情の起源は中世以前の宗教的事情による、ユダヤ教徒はキリスト教で禁止されていた金貸し業を営むことができ富を手に入れるものが多かった≒第一身分 聖職者かつ第二身分 貴族)を批判する、一般的な家庭を出自とする平民、つまり第三身分として革命を起こそうともがき続け、一方で産業や自己の欲求といった怪物から逃れられずに自己矛盾を引き起こしてしまってきた。(彼へのビッグマウスという批判の原因)向き合うべき問題にストレートに返答することを避け、皮肉、相手をバカにする、もしくは味方につけることで表面上の解決や勝利を求める姿勢はいかにもpoliticalで、そして。

喧嘩別れの妻キム・カーダシアンの養育する娘North Westをステージに上げ(彼女のパフォーマンスや見守るyeの様子はadorableではあった)、skit風のボイスサンプルでは自己言及(肯定)に努め、特等席にはtwitchインフルエンサーのIshowspeedたちが暴れる。シカゴを飛び出して世界中を飛び回った長年のキャリアで味方につけた多くのラッパーとともに狭いステージ上で顔を隠して立つ彼には、リリックのような尊大な自負(そして見合うだけの威厳)はなかった。yeezusとvultures、どちらでも彼はGODを名乗ったが、自意識の頂点に到達してユダヤ人の救世主Jesus Christに自らを重ねたyeezusへの今作での反映は、強化、補強された言論ではなく、半ば自己憐憫や慰めに近い。自意識という骨を強く硬くするのではなく外側に重ねてギプスを巻き続ける。STRONGERのミュージックビデオでオマージュしていた国産アニメの名作「AKIRA」の登場人物、島鉄雄の、能力の成長や薬物への依存、未熟な精神からやがて肉体が崩れ落ちていく様子を重ねて思い、鳥肌を浮かべずにはいられない。
自らの(絶対的な是非は置いておいて)世間からの反感を買った言動について、謝罪するわけでもなければ、正式に体系の立った言論を発表するわけでもなく、曖昧なまま異常に腫れあがった脳内のイデアを社会に対して突きつけるような行為は、彼のほぼカルト的なファンダムによって正当化されているかに思えるが、ソリッドに見える構造体は今この瞬間もねじれ続け、内外に暴力が蓄積され続ける。不安定な状況がやがて弾けるときには、adidasとのチームアップ解消などとは比べ物にならないほどの巨大な、同時に漠然としたダメージが彼を襲うだろう。
今回のギグは、アーティスティックなプロジェクトでもなければファミリーに向けたプレゼンテーションでもない、中途半端な規模でチケットを売り払い行った悲惨な事件現場である。アルバム自体は低音やサンプルカットアウトを活かした直近のye的サウンドに、どこか昔を思わせるような部分、娘の参加トラックやセルフサンプルなど、そこまでの駄作ではなく、むしろ平均的なヒップホップ・アルバムよりは相当美しい音楽を提供してくれた。序盤の楽曲の歌詞には核心と向き合った自己反省的な部分も見受けられ、JPEGMAFIAのエッセンスを感じさせる強い音圧、依然として圧倒的で革新的なサウンドクリエイションと相まって傑作アルバムになる可能性は整っていた。だが、中盤から歌詞は他者への批判や自己弁護に移行し、旧態依然としたflexやdisにまわった。前述した通り、世間の批判に意地になったキャリア終盤のラッパーによる間に合わせのアルバムに止まるという一面もある。


世間から離れることによって美学と向き合い自己を完成させる機会だったかもしれないのに、身内を集めてパンのための興行を行うという選択をとってしまったことについて、涙すらこぼれるほどの無念さを覚える。
*adidasと離れた後もヒットしたシューズ分野に固執し、$200を超える価格でのYZY PODS発売に踏み切った部分は、Yeezyを万民のための必須衣料の提供元のような存在、大量生産と低価格の販売によって誰でも服装を楽しめるようにしたいと語りながらも平均価格帯$100以上で販売し、機器やサプライの揃ったGAPとのコラボレーションに至ってなぜかさらに値上げする結末に至ってしまった(販売形式だけはゴミ袋に詰め込んだ風のインスタレーションで万民供給を意識した)YZY GAPの矛盾性をさらに煮詰めたような残念さである。GAPとのコラボではどうやらGAP側に値段を決定されてしまい本人の思った価格ではなかったとか、adidas x yeezyのシューズラインはadidasの生産ラインを使用しているためadidasに価格を決められてしまったという背景の主張もあるが、有名企業とのパートナーアップから抜け出し、自社生産を開始したにも関わらず依然として高額での販売を行うのは、高尚な精神性よりもむしろ人間くさい欲望を感じさせる行為だ。
*2 現在はYZY公式サイトで全商品$20で販売されており低価格で感動したが、mowalolaとのタンクトップ以外はvulturesのマーチャンダイズに留まっているので更なる展開を期待したい。
*3 リスニングパーティー会場でのマーチャンダイズ値付けは€40であった。ボディは依然としてロサンゼルスアパレル。YZY運営と同じ人間が計画しているとは思えない、やはり産業に逆らうことはできないか?yeのbankrupt発言やチープな服装からも何か考えることができるかもしれない。


kanye westは間違いなく天才で、そんな天才が超越的存在になることを妨げているのも彼自身だ。frank oceanが新作を頑としてリリースしないことで自己のディスコグラフィのバリュー上昇を妨げているのとは意味合いの異なる、さらに双極的事態だ。僕自身も双極性障害を持つが、yeは加えてシーンや社会のトキシックさに害されて分裂を加速しているように思える。強い意志や仲間と呼べる存在のもと乗り越えることを期待したかったが、もはや彼に合う鏡を用意できる存在はいなかったのだ。

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