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大暑の筆先 ~白紙~

 四肢ししをじたばたさせる、布団の上。枕元の原稿用紙の上には「真白ましろの原だ!」と小さな羽虫はむしが散歩している。インクの乗っていない、真白な紙。書けぬ。頭の中も真白である。

 大暑たいしょ土潤溽暑つちうるおうてむしあつしを迎えて二日目の昼。窓の外、草熱くさいきれに大気が蒸しかえる中、夏の終わりがもう近くにあるというのに、向日葵ひまわりが「まだ」と言って懸命に、その顔を輝かせながら碧羅へきらてんへと伸びをしている。そんな地上の太陽も相まってか、何もせずとも汗が出る。ペン先のインクすらも蒸発しそうな暑さ。そう、ペン先のインクが蒸発したから書けぬのだ。そうに違いない……なんて馬鹿な夢想はやめにして、枕元の「真白の原」へと向かう。
 真白の原は、それはそれは美しかった。この白を何でもって染めてしまおうというのか。黒のインクにて染めてしまうのが勿体もったいないくらいに、愛おしいほどの白であった。と、考えてはみたものの、そんなおふざけはやめて、この白紙を文字で埋めなければならぬ。はてさて人生の《大事業》は大変である。
 とはいえ何を書くべきか。否、何を書きたいのか。ぐるっと思考を巡らせてはみたが、何も思い浮かばぬ。振り出しに戻る。四肢をじたばたさせる、布団の上。真白の原を散歩していた羽虫は、同じ風景に飽きてしまったのか、何処どこかへと飛んでいった。いまだにインクの乗っていない、真白の紙。やはり、書けぬ。もういっそ諦めてしまおうか。

 赤翡翠あかしょうびん ピョロロと鳴けば 雨の空

 句をひらめいた。急ぎペン先にインクを湿らせ、白を染め上げた。しかし、すぐさま思う。これじゃあない。紙をくずかごへ捨ててしまおうか。いや、まだ書ける部分はたくさんある。そう考えてはみたが、なかなか良い作が思い浮かばない。ふと、自分は自分の文章の書き方が嫌いなのではないかと思い始めた。それは大いにあるかもしれない。出来ることならあの人みたいに、かっこいい文脈や豊かな語彙ごいを駆使して、後世にも残るような素晴らしい作品を作り上げたい! そう思うと同時に、自分にはそんなことは出来やしないと思うのである。嗚呼、哀哉かなしきかな。隣の芝は青く、そして花は赤いのだ。

 草のを 白南風しらはえの吹く 晩夏ばんかにて
 白紙の上に 水滴ぞ

落ちた水滴が白をにじませる夕方。晩蟬ひぐらしの声が大気を涼ませようと、山に、里に響き渡る。黄金こがね色にきらきらと輝く夕日は、何か大切なものを忘れてはいないかと、家へ帰る人々に声を掛けている。大切なもの、それは一体何であろうか。
 原稿用紙に水滴のみが付いてしまった。これはさすがに捨ててしまおう。くしゃくしゃと小さくなるように丸めて、少し遠くに置かれたくずかごへと投げ入れる。見事に外れ、床へと落ちた。何も書けぬうえに、外れか。まるで自分の人生のようだ、と心が鬱々とし出したが、いや、しかし、すぐさま思考が踏みとどまった。もうすぐ立秋りっしゅうが来る。それまでにはなんとか一作ひとさく書いてみせよう。こうなったら詩でもいい。とにかく書いて、仕上げよう。日が落ちて室内が暗くなる手前、決意を新たにして、そうして「また明日」と原稿用紙とペン、黒のインクを文机ふづくえの引き出しにしまい込んだ。こうしてまた、夏の一日が終わるのであった。

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