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『死の天使の光輪』 第三章

 厚い雲が日差しを遮り、二人の居る場所に陰を作る。それもつかの間のことだろう。吹く風が少し冷たく感じた。
「次は僕の考えを聞いてくれないかな?」
「構わない」
 少女はどこか嬉しそうに見えた。
「じゃあ話すよ。人々には過去の出来事で受けたトラウマがある。そのトラウマは今も人々を苦しめている。人々の心が過去からの影響で『今』も傷ついているのに、それで過去が存在しないなんてありえないよ」
 そう言葉を発しながら、昔の苦しい思い出に再会した。人は誰しも人には言えない苦い思い出の一つや二つ、いや、三四つとあるだろう。特に嫌な出来事は心に刻み込まれやすい。それらが無くなってほしいと願う一方で、解決策は未だに分かっていない。ただ、分かる事と言ったら、それらを解決するには時間がかかるということだけだ。
「その考えについてはこう言える」
 次に少女が話し始めた。
「過去は単なる『記憶』でしかない。過去と言われる『記憶』が『今』に存在している。あなたは過去のトラウマという『記憶』を持ち続けているだけ。トラウマを忘れるのは難しいことだけど、『今』という瞬間を生きるようにすれば、そういった事から自由になれる。『単なる記憶』にいつまでもしがみついていると、トラウマもなくならないし、過去からも離れられない」
 何故か少女が得意げな顔をしているように見えた。そして、少女の口から「過去は単なる記憶でしかない」と言われた時は、雷にでも打たれたかのように、大きなショックを受けた。あんなに遠ざけたいと思っていたトラウマに、未だに自らしがみついていたとは。しかもそれを、自分より若い人にさとされる日が来るとは思いもしなかった。
 だが、こちらにも、まだ言い分が残っている。
「実はもう一つ、話したいことがあるんだ」
それは自分にとっての重要な考えであり、少女とはなしをするための最後の切り札でもあった。
「過去の歴史があるからこそ今があり、そして未来に繋がっていく。僕たちは過去があったから、この廃墟のような遺物を見るからこそ、そこからたくさんの事を学びとることが出来て、そして、未来の希望を考えることが出来るんだ。そうは思わないかい?」
「そうは思わない」
 少女は間髪入れずに言葉を返す。
「何度も言うけど、過去や未来といった時間の流れは存在しない。あるのは『今』という瞬間と、それが含まれる『永遠』だけ。過去から学び取るよりも、今の閃きのほうが大切。次に、遺物は目に見える、心の拠り所にもなるけれど、この廃墟のように、いつまでも元の綺麗な形でいられる訳ではない。目に見えるものは、いつかは壊れ、なくなってしまう。私たちの本当の心の拠り所は、自分の内にいる神だけ。神は永遠に在り続ける」
 少女は尚も話し続ける。
「それに、未来に対して希望を持つのは良い事のように思えるけど、その考えでは『今』を生きてはいない。存在しない未来に希望という名を付けて生きていることになる。でも私たちは『今』という瞬間に生きることしか出来ない。『今』という瞬間を生きるのを意識するのは難しいかもしれないけど、現に私たちは『今』という瞬間を生きている」
 またしても、少女の表情は得意げであるかのように見えた。少女の話した内容が正しいように思えるが、しかし、こちらの意見を捨てる訳にはいかない。それにしても、希望を持つことは今に生きていないだと?そんな馬鹿な!これが、それぞれが今まで通って来た道の違いだろうか。それとも……。ここはひとまず、少女の話に納得したという相槌を打って休戦するとしよう。これ以上はお互いの尊厳と脳の活動に支障が出てしまいかねない。
「君の特別な真理については、意見を交わす中でよく分かったよ。でも一つだけ聞いておきたいことがあるんだ。どうやったら『今』を生きている感覚になれるのか、教えてくれないかな?」
 話を完結させるように促したが、こちらの思惑を感じ取ったのだろうか、少女はどこか悲しそうな、残念そうな顔を見せた。そんな表情にこちらが内心戸惑っていると、少女は小さな笑みを浮かべながら言った。
「それは、自分のやりたいこと、好きなことに夢中になる、楽しむこと。自分がすることは一生懸命にすること、集中すること。そしてそれらと繋がっている自分に気づくこと。私の気付きから言えることはこれぐらい」
「そっか。教えてくれてありがとう」
 そうお礼を言い終わると、少女が焦っているように見えた。そして慌てた様子で少女の言葉はまた紡がれる。
「まだ……まだ伝えたい真理がある」
 そう言って少女は青年の服を優しく引っ張る。これは、何がなんでも、少女の訴えに耳を傾けようと、青年は決意を固めた。
 厚い雲が通り過ぎ、再び日の光が二人の居る場所を照らし始める。吹く風に、心地良い温もりを感じた。

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