風になりたい

 僕は今すぐにでも死にたかった。
 世の中に絶望したのではない。死んで、風になって、君を優しく包み込んであげたいと思ったからだ。

 死にたくなった。
 風になりたいと思ったから。

虹色に輝く太陽の光。
早朝の草花に降り立つ静かな露。
珈琲から出てくるの湯気。
鯨が飛んだ後にできた海の泡。
豊穣の頭垂れる稲穂の一粒。
君が着る服に織られた一本の糸。
無邪気に遊ぶ子供たちの歌声。
長く飛んでいるシャボン玉。
夜の部屋を照らすキャンドルの灯。
なりたいと思った。

 想った。願った。君の好きなものに、君の傍にあるものに、僕はなりたい。

 でも僕はなれなかった。勇気がなかった。覚悟がなかった。風にも光にも露にも湯気にも泡にも一粒にも糸にも歌声にもシャボン玉にも灯にも、なれなかった。僕は君の好きなものになれないし、君の傍にいることもできない。

 僕はただ、僕のなりたかったものに包まれていることしか出来なかった。風に包まれて、涙を流していた。そして径を歩いていた。生きることへ向かって歩いていた。

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