祠より、人の世へ。

 朱殷しゅあん色に染まる雨に、地に、何思う。世はすえ阿鼻あび地獄と化したそれは誰の仕業か。人々は、神が人世じんせいを見捨てたとえていた。アイツのせい、コイツのせい、とのたまって罪を塗り重ねては断罪し、また残った者同士でのいがみ合い。ここに赦しを持つものは存在しない。それゆえの地獄絵図。
 小さなほこらに祀られし神は、修羅場を覗いて安堵あんどした。嗚呼、これこそは《人の世》であるが故の出来事である。神の世にはない出来事。ここは人の世である。人の世であるならば、さあ人々よ、もう一度、われに心を開いて、平和を望め、平和を誓え、この祠を人々の平和の象徴として設け、そうして此処ここを通る度に平和を想うがいい。これこそが人々の仕事であり、我の役目である。祠の神は自らの声をもって人々の心の間隙かんげきへと入り込もうとした。しかし、吼える人々は祠に目もくれず、地を這い、身体を引き摺り、やっと立ち上がったかと思うと、地を這っている他の人を蹴り、蹴った反動でまた転げ地に伏して、打った箇所を抱えて呻き声を上げる。もはや魑魅魍魎ちみもうりょううごめいている様にしか見えないこの世にて、祠の神は人々のあいだへと入り込もうとした。愛しき人々よ、聞け! 我の前で平和を望め、平和を誓え、人々の間に赦しの心を持て、人は他人を裁いてはならない、自ら裁きを待つもののみに自らが裁くのである、赦しを、人々に慈しみを。しかし、その声は人々には届かなかった。なお弁柄べんがら色の雨は降り続き、地は染まる。ある人は疲れ果て、仰向けになって紅唐べにとう色の空を見上げた。嗚呼、何時いつからだろう、あの青空を見なくなったのは、そういえば青空すらしばらく見たことがなかったような、嗚呼、忘れてしまった、何もかも、無くなった。嗚咽おえつ、そして仕舞いに山中にあった小さな祠のことを想った。神が居るならば、どうか、“これ”をどうにかしてください! もう、人の手じゃあ、どうにもならないんだ、どうにかしてくれ、どうか、頼む! その人は神にすがった。祠の神は人の声を聞いた。祠の神は更に声をはっす。始まりには慈悲を、赦しを、それらを心に宿して人々の心を救え! 平和を望み、そしてここで平和を誓え! 自らを平和の象徴として、慈悲の体現者として、世に身を置くことをせよ!
 その人は、強く願った。また青空が見えるようにと。ひとりじゃ足りない。まだ何人もの力が要るだろう。その人は、地に伏していた人の中から一人抱き上げ、救い出した。助けられた人はまだ怯えていたが、微笑みながら言葉をかけると落ち着き始めた。その人はこう言った。
「あなたは青空を見たくはないか。見たいのならば一緒に願ってくれないか」
そうして人々は地から立ち上がり始め、その人と一緒に願った。またあの青空が見たいと。

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