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『朝のあかり』(石垣りん著)を読みました

その詩に出会ったのは数年前。
三角みず紀氏の詩は衝撃だったし、金子みすず氏を知った時も「なんだこれは~!」と既成概念がボロボロと崩れ去る音がはっきり聞こえた。
石垣りん氏の詩は、それに比べるとインパクトはかなり薄い。なのに魚の小骨みたいに心の片隅に引っかかって、ふとしたはずみにチクチク刺してくる。
平易な言葉で綴られ、一見淡々としてるのに、日常に潜むささやなか「負」の面…神経にさわるもの、理不尽なもの、冷たいもの、あるいは心の奥底に埋もれてとうに忘れ去ったもの(見たくなくて捨ててしまったものや、昔の自分にとってのありがたい宝物なんか)を思い出させてくれる。
 
今回読んだのはエッセイ集『朝のあかり』。エッセイといいながら自伝のようでもある。りん氏はすでに亡くなっているので既刊のエッセイ数冊をまとめた本らしい。
早くに実母を亡くした生い立ち、のちにやってきた義母や父親への複雑な思い。
戦前に女性が働くということ。良妻賢母こそが女性の理想像だった当時、職業婦人は蔑視の対象ですらあった。
それでも自由がほしくて、りん氏は中学卒業と同時に銀行に就職。結果的に(様々なことが重なって)家族を養っていく立場に立たされる。
「私は家族というものの親愛、その美しさが、時に一人の人間を食いつぶす修羅を思いえがく…」
と語る一方で
「私が食べてきたのは御飯だったか、家族だったか」
とも振り返る。
つまり共喰いということ?
りん氏のまなざしはどんな時も冷徹だ。
他者だけでなく、おのれに対しても。
自分の心に巣くう醜さや冷たさから目を逸らすことはない。
けれどだからといってその矛先は自己否定、自己批判へと向かうことはない。
鋭く自己分析はするけれど、ダメ出しはしない。自分はこういう人間なのだ、こういう生き方しかできないのだと受け入れ、それで生きていくことをよしとする。
羨ましいなあ、ここが違うんだよなあと思う。私にはそういう強さがない。世間の圧に同調して、一緒になって自分にダメ出ししちゃう。軸がぶれっぱなしなんだよね。
 
りん氏は世間の常識を無批判に受け入れない。本当にそうなのか常に慎重に自己に問う。
例えば、
「不幸も考え方で幸福に…」
のあとには当然「なる」とくるのかと思ったら、「すりかえるのではなく」と来た!
これにはビックリ!
もっと大変な境遇の人と比べて、自分なんてまだマシと思ったり、まだあれもできるしこれもあると足りている現状を再確認…して満足してるだけじゃそのまま思考停止になってしまうよと。
もう一歩踏み込んで
「そもそも幸福とはなんぞや?」
と自分にとっての幸福の意味を掘り下げ、さらなる段階の幸福への希求を続ける(りん氏は周りに不幸な人がいたら幸せな気持ちにはなれないと考えている)必要があると。
なるほどなあと思う。どういう状態の時に私は幸福だと感じるのか、ちゃんと考えたことなかったかもしれない。
 
詩作について、虹を書くことを例に挙げているところが印象深い。
「虹をさし示している指、それがどうやら詩であるらしい」
虹を書く時、虹そのものよりも、虹へ注がれる動的エネルギーのような指を描く必要があるという発想が新鮮。
「虹を見るとしても、そこに野山や空がなければならない。現実、または実際にあるものの向うに虹は立つ」
若い頃は虹を書くには、虹だけをじっくり観察することこそが肝心だと思っていた。
でも虹は虹だけで忽然と浮かんでいるわけじゃない。その周りには空気があり、光があり、背景がある。それすべてが虹であり、そこまで描かなくては存在感のある虹は描けない。
人間も同じだなと思う。
勝手に一人でポンッとこの世に生まれたわけじゃない。一人で育ってきたわけでもない。家族がいて、育った家や環境があり、出会いがあり、生きる糧があり、そうしてできあがった存在が私たちなんだ。
 
 
 
 

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