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母の引越し その1

2023年がやってきた!
本当なら今頃母は実家を離れ、うちの近所にある高齢者アパートで新しい生活をスタートさせているはずだった。
けれど母は今も自宅。そこで1人暮らしをしている。
忘れもしない昨年12月4日。引越し予定日早朝。前日からうちに来ていた娘と連れだって実家へ。
玄関ドアを開けたとたん、山積みになった空の段ボール箱が目に飛び込んできた。先週母と一緒に家のあちこちから持っていく物をかき集めてせっせと荷造りした箱たち。それが全てからっぽ。空しく大きな口を開けて目の前に転がっている。
慌てて居間の戸を開ける。
炬燵に入っていた母がさっと私の方を振り向いた。鋭いまなざし。その目を見たとたん、今ここにはいるのは母じゃないと直感した。母は異界へワープしている。
「どうして荷物全部出しちゃったのよ」
すっとぼけてこう聞いてみた。
「私は養老院へは行きません!死ぬまでここにいます。塩をなめてでもここを絶対離れません。どうにもならなくなったらデパートの屋上へ行って飛び降ります!」
梃子でも動かない形相で母は言い放った。
これから行くところは高齢者向けのアパートで養老院ではないこと、いつでも退去できること、そもそも母がどこかへ移りたいと言い出したから決めたこと。娘と一緒に何度も説明したが、全く聞く耳を持たない。
まるで強制収容所にでも連行される人のよう。悪の手から自分の身を守ろうと必死だ。
「お母さんは私のことが信じられないの?」
と聞くと、
「前は信じていたけど、今は信じられない」
と言う。どうして?と聞くと
「私を養老院へやろうとしてるから」
はあ~?何言ってんだよもう~。
これまで引越しの準備を進めるうち、3回ほど同じようなことがあった。
「私は養老院なんか行かない。苦労して子ども2人を育てて大学まで出したのに子どもは親を姥捨て山へやろうとする!」
と電話口で一方的にまくし立てられた。これじゃあ引越しは中止するしかないかと思って翌日電話すると、やっぱり引越しするという、そんなことが繰り返されていて正直イヤな予感はしていた。
そうこうするうち引越業者がやってくる。
電話で夫と相談、引越しは中止することにした。その前に母に一筆書いてほしいと頼む。
言った言わないになると困るから、念のため何かあったら一筆書いてもらおうと家族で相談していた。
「私の一存で引越しはいたしません」
日付を書いて署名。
「あー良かった!これでずっとここにいられる~」
書き終わったとたん、母はいかにもホッとした様子で嬉しそうに叫んだ。
その横でこっちは怒りを露わにしないようにするのに必死だ。これまでどれだけの時間と労力を引越し準備に費やしてきたと思ってんだ!とはらわたが煮えくり返ったが、腹を立ててる暇はない。
事情を説明して引越し業者には引き取ってもらい、実家の片づけもそこそこにアパートへ。入居のキャンセルを申し出て、部屋に届く予定の家具を受け取らなくてはいけない。
向かう途中、ダメもとで家具のキャンセルの電話をかけまくる。驚いたことにほとんどの家具がキャンセルできた!もうあと数時間で配達されるというのに。
テーブルと椅子だけはダメだったのでこれは受け取らなくてはいけない。ベッドはネットで買ったのでいったん配送してもらってから返品になる。
アパートに到着。事情を説明して入居は取りやめたい旨お話して平謝り。実は契約日の朝に「養老院へはいかない」電話が母からあり、無理を言って引越し当日の契約に変更してもらっていた。
契約は予定通り行いその上でキャンセルしたいと申し出たが、担当者さんうーんと唸ってしまう。散々悩んだ挙句契約は結ばず、すでに振り込み済みの入居金も全て払い戻してくれるという。
予想外の展開に夫とともに呆然。散々振り回してのキャンセルだったから、あまりにも申し訳なさ過ぎてせめて1カ月分の家賃くらい受け取ってほしいと懇願したが、規定にないからと頑として受け取ってくれなかった(後日寄付として少額を送金)。
契約していないから部屋には入れないので、私と娘はアパートの中庭で家具の到着を待ち、夫は配送先を自宅に変更したベッドを受け取るためいったん家に戻る。
幸い穏やかな昼下がり、ベンチで娘とおしゃべりしたりストレッチしたり、しばしのんびりしていると、
「あなたたち何してるの?」
中庭でパターゴルフの練習をしていた白髪の女性が話しかけてきた。引越しの予定が中止になって…とお話する。
「あらまあ、なんてこと!」
なんとその方、母が入居する予定の部屋のお隣さん!
今朝隣の空き部屋のポストに朝刊がささってるのを発見、今日がお引越しだわ!とワクワクしていたんだそう。
「引っ越されてきたらすぐご挨拶にうかがおうと楽しみにしてたのに」
いかにもガッカリした様子。
聞けば母より1つ年下で、富山のご出身とのこと。東京の空が真っ青で雲が高いのに驚いたこと、空気が乾燥していて髪が逆立っちゃうことなど面白おかしく話してくれた。
こんな楽しい方がお隣さんだったら母もスムーズに新生活をスタートできただろうなと思うと残念でならない。
最初にテーブルが届き、続いて椅子が届いた。引越しがなくなったこと、本人ではないこと(その娘であること)を説明すると、どちらも伝票も見ずサインもなしで了解してくれた。テーブルの配達員は、相当重いけど運べます?誰か手伝いに来ます?ととても心配してくれた。
ベッドも無事届き、車にテーブルと椅子をうんしょうんしょと積み込む。ちっこい車だけど、後部座席を倒してなんとか積み込んだ。
テーブルがまさかの35kgもあって家に運び込むのもひと騒動。娘がいてくれて本当に助かった。
家でちょっとお茶を飲んでから、今度はよっこらしょとクレジット支払いのキャンセル手続きに。全ての手続きを終えて帰宅できたのは「鎌倉殿」の始まる頃。振り返れば悪夢のような長い1日だった。

翌日腹の虫は収まらないが、母の様子も心配だったから電話を入れてみる。
開口一番母は言った。
「たしか引越しは明日よね?」
どひゃ~!!
この続きはまた今度。

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