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たんぽぽとさくら

朝日新聞朝刊のエッセー担当の1人が、5月から、なんと私のお気に入りの小池昌代氏に。
うふ、青天の霹靂のよろこび~!
詩人や歌人は言葉選びの達人。
言葉にできないまま日常の喧騒にあえなく掻き消されていく、かすみのような思いを丁寧に掬いあげ、まるでジグソーパズルのピースみたいにピッタリな言葉を与え、命を吹き込んでしまう。
彼女もそんな魔法を使える一人だ。
 
人間の憂慮とは無関係に、一年のうちでもっとも美しい季節がやってきた
 
出だしからしていいな。
「人間の憂慮」とは何を指すのか。
国同士の終わりの見えない紛争や目のやり場に困るような政治家たちのはしたない行為などなど。もっと卑近で個人的な出来事まで、いろいろありそう。
 
自然はいつだってわたしたちに頓着せず、どこまでも無頓着にひろがっている。
わたしが苦しんでいても優しい言葉なんかかけてこないし、大丈夫だなんて気休めも言わない。
 
自然に働きかけ、祈ったり詩歌に詠んだりするのは、もっぱら人間の側であった。
 
神などいないと考える小池氏(私も同感)は、雨乞いをしたって所詮無駄なこと、と断言する。
その一方でいざ何がしかのコトが起こると、つい神頼みに走ってしまう自分がいる事も重々承知している(私も同じく)。バカだなとか、矛盾してるよなって苦笑いしながら。
 
非科学的で根拠のないものを「希望」と呼ぶのだとしたら、わたしたちはなんという頼りなくはかないものを抱いているのか。
 
そもそも人間という存在自体が、実はちっぽけで、はかないものなんだろうな。
 
小池氏は駐車場の敷地の隙間に、わずかな土を見つけて根付く、たんぽぽの一茎を見つける。踏みつけられて「だらりとだらしなくくたばっていたたんぽぽさん」。小池氏は思う。
 
若いときだったら哀れなたんぽぽと一編の詩でも書いたでしょうか。
 
しかしもう若くはない彼女は、次のような感慨に浸る。
 
ああ、無残なり。自分の姿を見たように思った。
 
でも彼女は年老いて惨めな姿になった我が身を、たんぽぽに重ねて嘆いているわけでは決してない。
 
花として終わったたんぽぽに、わたしは、独立した、見るべきものがあると感じた、
 
それ以上でもそれ以下でもない。嘘のない現実のくっきりと鮮やかな太い輪郭。
 
良いとか悪いとかではなく、たんぽぽとしての命を全うしたという、ささやかな歴史がその体に満ちている。小さな花だろうが、人間だろうが、変わりはない命の営み。
「現実」の持つ重さがずっしりと伝わってくる。
生きるという事の重さ。命の持つ重さ。
 
エッセイを読みながら、私はこの春見た桜を思い出していた。
いつものように近所のスーパーへ出かけた朝、スーパー脇の敷地にある数本の桜が満開だった。葉桜になりかけてはいたけれど、青空を背景に、朝日を受け、桜は見事に咲き誇っていた。
その帰り道。同じ道を通ると、一転、雪のような花吹雪。風など少しも吹いていないのに、あとからあとから間断なく降りしきる。
それこそ若い頃だったら、その美しさに見惚れ、ロマンチックな気分浸れたかもしれない。
ところがこの年になると、美しい眺めと感じる一方で、何とも表現しがたい悲哀を感じてしまう。
悠然と咲き誇っているかに見えたさきほどの桜は、本当は最後の力を振り絞り、ギリギリのところで持ちこたえていたのだ。今はすでに力尽き、ただなすすべもなく舞い落ちていく。
まるで泣いているみたいに。
自分もいつか、そう遠くないいつか、あんな風に散っていくのだ。
一つひとつ自分らしさや、努力して身に付けた力を力なく手放していきながら。さまざまな場面で出会ったかけがえのない人たちとも別れを迎えなくてはいけない。
それは誰もが辿る道。
去る時が来たという、ただそれだけのこと。
たんぽぽも、桜も、私も、命あるものはみな、限りある命を生きているということ。
それだけのことがこんなにも寂しく、切なくてたまらない。
 
 
 
 

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