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後天運でめぐる納音について

算命学では、天干が同じで地支が正反対の組み合わせの干支どおしを納音と呼びます。
例えば、甲子と甲午は納音の関係です。

音が納まる、と書いて納音ですが、
後天運でめぐってくれば、行き止まり、とも 因縁解脱、とも言われます。

いまいちイメージしにくい納音ですが、
納音を向かえた人を何人か見てきた中で、今のところ私が理解したことをまとめてみようと思います。


音が納まる、の音というのは澄み渡った音というよりはガヤガヤガサガサした複数の雑多な音を指しているのかな、と思っています。

というのも、たとえば日干支が甲子の人にとっては甲午が納音となりますが、

十二支のながれがどのような意味を持っているのかというと、

子から午への期間はどんどん外へ出ていってトライ&エラーやトライ&サクセスなど様々な経験をストックしていく時間であって、

午の時間でその大量にストックしてきた経験を精査する、
つまり、自分が引き続き必要とするものか、そうでないものか振り分け、

午から子への期間はその引き続き必要なものから無駄をどんどん削いでいき輝きを持たせて、

より輝いた本来の自分をもって子という新規のスタートを切る、

…十二支というのはこのような流れです。


ですので、納音まではなんでもかんでも取り込んでいく、つまりガヤガヤガサガサと音が出るときであり、
納音の時間でそのなんでも取り入れる活動を止めて精査に移るので、その雑音が消えます。
…つまり「音が納まる」ということ。

納音が「行き止まり」といわれるのも、もう取り込むことは終了の時なので、取り込むために前進することもなくなる、ということ。

また、「因縁解脱」というのは特に西方に納音がめぐるときに言われることですが、精査の過程でその因縁はもう不必要と判断されて消滅するということ。


ただ、納音が対冲と異なるのは天干が同じという点で、
天干が同じということは、
見ている景色が同一、思考が同一、であるために、自分が要不要の精査をするには難しさがあります。

同じ思考をもって行動した現実が正反対になる、
なぜ?
という疑問にぶつかることになるからです。

(そしてそもそも思考が同じなので精査することもままなりません。自分が積極的に精査するというより、自然の流れで精査されることが多いかと思います。)

正反対の現実に納得がいかない、受け入れられない、どのように対処すればいいのか分からない、と混乱し、

そして納得がいかないからとあがいたり、
受け入れられないからと突っぱねたりしても、
自然の摂理には抗えるものではなく、現実は壊れていきます。

現実は壊れていく、と聞けば、恐ろしく感じるものですが、
なんでもかんでも壊れるのではなく、
これからの自分に必要なものは残るもの。

不必要なものが壊れ、必要なものは残るので、
「起こることは正しい」という意識をもって臨めば、何も恐れることはないですね。
(といっても、何が起こるか分からないというドキドキ感はありますが笑)

起こることを受け入れられず、それに執着してしまうから苦しいのであって、もう必要ないものだからすっきり手放せばいい。

東方で起こる納音であれば、仕事の世界や世間とのかかわり方において、
中央で起こる納音であれば、自分が拠り所として頼りにしてきた場所とのかかわり方において、
西方で起こる納音であれば、身内や家族の世界とのかかわり方において、またはこれまで蓄積してきたものに関して、
精査が自然と行われるという事。

私がこれまで見てきた人たちは、納音後に新しい出発をする方がほとんどです。
それは環境が引き起こす変化に基づくもので、
過去に執着が少ない人ほど、新しい出発への移行はスムーズです。

そういう意味では、
自分の力で生きてきたという自負のある身強の方には厳しい位相法であり、
流れに逆らわず生きてきた身弱の方のほうがすんなりと乗り越えていく感じがあります。

納音は60年に一度しかめぐってきませんので、東方、中央、西方それどれ1回ずつしかめぐってこない方が多いかと思いますが、
その威力は対冲の5倍(対冲は12年に1回めぐります)とも言われ、人生の大きな節目になるもの。

これから納音をむかえる人は、納音を前向きにとらえ、本来の自分をより輝かせる出発点に立つことを楽しみにされたら良いと思いますし、
すでに納音を過ぎた方は、今内側に残っているものに磨きをかけて、次の律音にはピカピカの本来の姿で出発できるよう準備をされたら良いかと思います。












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