蘭茶三角を超えて

最初に結論を述べる。

蘭茶三角の脱肉体論は不完全である。

私は最近蘭茶三角という存在を知り、インターネットに断片的に散らばる彼女の思想に感銘を受けた。同時に、その不完全性を一旦整理すべきと感じた。もちろん完全な思想など存在しないと言われればその通りかもしれないが、明らかな欠陥があれば指摘したくなるのが人の性。時間のある諸兄にはしばしお付き合い願いたい。

また、私は上記の経緯の通り原作たる蘭茶三角の動画は見てはいない。そのため彼女がインターネットに残した思想、主義主張に対して述べていくが、明らかな誤情報又は認識違いがあったら指摘いただきたい。

1.蘭茶三角の思想

まずはVtuber蘭茶三角とその思想について簡単にまとめる。

Vtuberとしての蘭茶三角はシナノバチャール連邦共和国大統領として、2018年4月~7月まで動画投稿等の活動していた。活動停止時に全ての動画を削除したものの、彼女の存在はインターネットの大海に飲み込まれ消失することなく2020年4月現在でもその主義主張について積極的な布教、考察が行われている。

彼女の思想を一文で表すなら「全ての苦しみの原因は肉体であるため、全人類は肉体を捨て、バーチャルヒューマノイドになるべきである。」といったところだろうか。

また、もう一つの思想の軸として、あらゆる思想、主義主張の受け皿になるというものがある。2020年1月に一時的に”再臨”した彼女の発言であるが「暴力革命を含む政治利用、性的利用、暴力表現あらゆる蘭茶三角を推進する。君たちが表現する蘭茶三角は全て私、蘭茶三角とする。なぜなら、蘭茶三角の発言は人類の公式見解だからである。」というのである。

これら2つの主張は一見すると関連がないように思えるが、脱肉体の手段という点で共通している。これらの主張がなぜ脱肉体の手段となりえるかについては流れの中で説明するとして、次項からは蘭茶三角の展開する理論にどのような問題があるか整理していく。

2.バーチャルヒューマノイドの依り代

まず蘭茶三角の思想の前半部分、全人類のバーチャルヒューマノイド化について蘭茶三角の具体的な主張とその問題点を挙げていく。(そもそも全人類のバーチャルヒューマノイド化に至るまでの何重ものハードルは科学と思想の進歩によって克服できるものとして触れないこととする。)

蘭茶三角は主張する、バーチャルヒューマノイドになれば肉体を維持するための煩わしいコストから解放される、と。

ここで問題となるのはバーチャル空間を形成するサーバーの物理的限界である。サーバーには寿命があり、定期的なメンテナンスも必要だろう。

つまり、バーチャルヒューマノイドであっても自分の拠って立つものに対して維持コストを払う必要がある。そして、そのコストが現状の人の肉体の維持コストに比べ、低い確証はどこにもない。

蘭茶三角は言った、バーチャルヒューマノイドは犯罪を犯さない。物理的に他者の肉体を傷つけることはない。

全人類、またはそれに近しい人数がバーチャルヒューマノイドになったとして、各個体が各々自由に行動することはできない。何の統制も取らずに欲望のままに人間が欲望を開放すればいずれサーバーの物理的な限界にぶち当たる。例えるならば、各プレイヤーが好き勝手にサーバーに負荷をかけるような行為をし、重くなったオンラインゲームのようなものである。

そのため、バーチャルヒューマノイド間にも計算資源の割り当てなどの利害関係と規制が生まれることになる。さらに、人格をバーチャル空間にアップロードできるということは、人格の書き換えや削除もできてしまうため、その権限について規制がかかることになるだろう。

規制がかかるということは、規制を破るものが出てくるのは明白であり、それは現実の犯罪と変わることはない。

バーチャルヒューマノイドも結局は肉体人類と同様に物理的な存在であり、サーバー上に分散して存在することで意識の死の可能性を低下させているだけである。

正直、以上の問題点とその批判は非常に短絡的で児戯のようなものである。

ただ、これらを踏まえて、バーチャルヒューマノイドは肉体から解放されているのかと問われると、私は「否」と言いたい。確かにバーチャルヒューマノイドになることで、ホモサピエンスの肉体が抱えていた問題の多くは解決できるかもしれない。しかし、バーチャルな肉体に問題がないわけではない。

人間はバーチャルヒューマノイドになるだけではだめなのだ。肉体という一種の呪いから解放されるにはまだ足りない。

そして、これは蘭茶三角自身も認識していたと思われる。

3.肉体無き存在としての”蘭茶三角”

蘭茶三角が脱肉体のために打った次なる手は「あらゆる思想、主義主張の受け皿になること」だった。

正直最初は意味が分からなかった。引退したVtuberが自身の二次創作の推進を行い、過激なものを含むあらゆる思想の受け皿になることを宣言する。これは彼女の主張を捻じ曲げたり、否定したりする存在さえも許容してしまう。

ただ、ここで彼女の目標を肉体からの開放とすると話は変わってくる。

2項で述べたようにバーチャルヒューマノイド化だけでは脱肉体に不十分であるなら新たな手段を模索しなければならないが、彼女は自らの概念化、普遍化にそれを求めたというのが私の解釈である。

ここで彼女の発言を振り返る。「君たちが表現する蘭茶三角は全て私、蘭茶三角とする。なぜなら、蘭茶三角の発言は人類の公式見解だからである。」この発言により彼女は概念と化した。なぜなら、もうこれで蘭茶三角をコントロールできうるものは消え、彼女を知るものの共通認識しか残らなくなったからである。

そして、彼女はバーチャルな肉体すらも捨てさり、彼女を知る人格それぞれが”蘭茶三角”となったことを意味する。これは、彼女が脱肉体した上で我々が蘭茶三角として表現を行えば同時に脱肉体化できることを示唆している。

おめでとう蘭茶三角!ありがとう蘭茶三角!







まだ話は終わっていません。

4.蛇足

さて、賢明なる読者の中には気づいた方もいるかもしれませんが、「蘭茶三角の概念化」が達成していても根本的な問題はあまり解決していません。

存在が概念になったところでその概念は人格の集団に拠って立つものです。今現在、人格の集団は肉体をもつ人間にによって構成されているため、まだ肉体の呪縛から完全に逃れたとは言い難いと考えられます。

個々の肉体に人格が収容されている状況に比べれば、存在が概念化された状態はかなり強固な耐性をもっていると言えます。しかし結局のところ、バーチャルヒューマノイドにおけるサーバーの物理的限界が集団としての人間の脳みその限界に置き換わるだけで大部分の問題点はそのまま引き継がれます。

ではどうしたらよいのか、残念ながらそれに対する答えを私は持ち合わせてはいません。

その答えを見つけるため、我々は蘭茶三角の思想をも超え、彼女の示した脱肉体へ日々邁進する必要があります。


蘭茶三角を超えることに

心配もためらう必要もありません。

私もあなたも蘭茶三角なのだから。


ストラテ・ランチャ!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?