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『aftersun/アフターサン』ーー父と娘のはざまで

昨年からずっと気になっていた映画、『aftersun/アフターサン』をみた。
11歳だったころに父親とリゾート地で過ごした夏休みの思い出を、当時の父親と同じ年齢になった娘が振り返り、記憶を紡ぎ直す物語。

「余韻が残る作品はいい作品だなあ」といつも思うけれど、ここまで余韻が残ったことはこれまであんまりなかったかもしれない。余韻が残るというか、見終わった後からあれこれ思い返してじわじわと心にきた。物語が進んでいくうちに、自分が映画をみる(捉える)視点が変わっていったのも、映画体験としておもしろかった。

(ここから映画のストーリーに触れていくので、ネタバレになるかも)

この映画の登場人物は、11歳の少女ソフィと、若い父親のカラム。カラムとソフィの母親は離婚して、ふたりは普段は離れて暮らしているらしい。トルコのリゾート地に滞在し、プールで無邪気に遊び、日焼け止めを塗りあい、友だちのような会話を交わすふたりをみていると微笑ましい。けれど、リゾート地といえどホテルはひなびていて、ふたりの会話からも決してカラムが経済的に恵まれているわけではないことがわかる。そして、おそらくカラムは旅行の後に自殺している。その夏休みの思い出は、ビデオテープに映像として残っていて、カラムと同じ年齢になったソフィが、いまは亡き父親のことを理解しようと映像を見直しながら当時をふり返っていく。

映画を見終わってすぐ読んだ、ウェルズ監督のこのインタビュー記事がすごくおもしろかった。


監督いわく、最初は構成もなく、ふたりの人間がただバケーションを過ごす映画にしようと思っていたけれど、草稿に取り掛かった段階で「これは記憶についての物語だ」と気がついたそう。この物語は、ビデオに残る過去の映像と、ソフィの記憶と、さらにソフィの想像から構成された、あくまでソフィの視点から描かれた物語になっている。

つまり、たびたび出てくるカラムひとりのシーンは、すべてソフィの想像に過ぎないということ。ふたりで過ごした夏から20年が経ち、当時のカラムと同じ年齢になったソフィには、記憶の中のカラムの「自分の父親」としての側面だけでなく、「ひとりの未熟な人間」としての側面もみえるようになったようだ。カメラには映っていない、そして自分も実際にはみていない、カラムが苦悩する姿をソフィは思い描く。

わたしは前情報をあまり入れずにこの映画をみ始めたので、最初は完全に自分をソフィ、自分の父親をカラムに重ね、自分の父子関係について思いを巡らせていた。お父さん、大学のときめちゃくちゃ迷惑かけたけど見放さないでくれたよなあとか、そういうこと。それがあのラストシーン。ソフィを見送ったカラムの後ろ姿。最後にあれをみて、気がついたらカラムに自分を重ねていた。わたしも、当時のカラム、現在のソフィとほぼ同年齢だった。

カラムはソフィとのバケーションのあいだに誕生日を迎え、31歳になる。つまり、現在のソフィもおそらく31歳。以下、監督のインタビューより、登場人物の年齢について。

「キャラクターの年齢についてはとても考えました。カラムが29歳ではなく30歳で、31歳の誕生日を迎えようとしている設定にしたのは理由があります。29歳から30歳になる誕生日には、意味がありすぎる。30〜31歳は、自分がいるべきところにいないような不安がいまだにつきまとう年頃だと思います。年上の大人も、ソフィのような年下の子どももいて、自分はその境目にいる。」

https://www.cinra.net/article/202305-aftersun_gtmnmcl

月並みだけど、子どものときは30歳って地にしっかりと足のついた立派な大人だと思っていたのが、いざ自分がなってみると全然そんなことなくて。思春期のときもそれなりに思い悩んだけど、30歳ってもっと宙ぶらりんで、わたしはその足元の心もとなさがとにかく苦しくて、毎日もがいている。10代も苦しいことはあったけれど、「成長過程」という免罪符のもと、どこか安心して足のつかないままでいられた気がする(こういえるのはわたしが年を取ったからであって、渦中にいるときは辛いのはよくわかる)。

カラムは旅のあいだ、自分でも気づいていないような彼自身の深い悲しみに襲われる一方で、ソフィと一緒なら最高でいられる。それらの相反するはずの感情が、矛盾せずに存在し得るということを描きたかったのです。
                    ―シャーロット・ウェルズ監督

https://www.cinra.net/article/202305-aftersun_gtmnmcl

思い描いていた自分と現実のギャップ、自分がいるべきだと思っていた場所は本当は手の届かないほど遠かったことがわかってくる、でも、それをありのまま受け止められない。半分諦めてしまっているのに、半分諦めきれない。そんな中途半端な状態で、「いつかはこうなれるはず」が、だんだんと「いつまでもこのままなんだ」に変わっていき、気を抜くと崩れ落ちそうになる。でも、自分で生きていかなくちゃならないから、なんとかそれを立て直して、結局なんにも変われないまま同じような1日を繰り返す。この不安定な感じとずっと付き合っていくのかと思うと、その途方もなさに押しつぶされそうになる。

ウェルズ監督は、悲しみと喜びはコインの裏表のようなものだといっている。「喜びに溢れた経験があるからこそ、悲しみを感じることができる。ある一方だけを描いていたら、それ自体が意味をなさなくなってしまう」と。悲しみと喜び然り、幸せと不幸然り、人間は微妙なバランスでなんとか立っていると思う。「ソフィと一緒なら最高」でいられたからこそ、カラムの揺り戻しは凄まじかっただろうなと、想像しただけでわたしも苦しくなる。

見終わった後に、こうやってこの作品について考えれば考えるほど、カラムにますます感情移入していった。だけど、あのラストシーンもソフィの想像でしかないのであれば、カラムと同じ年齢になり、子どものころはわからなかった人生の苦しみを知り、自分と別れた後の父親の背中を思い描くソフィにこそ、わたしは共感しているといえるのかもしれない。


SNSで話題になっていて評判がよかったのでみたいと思いつつ、けっきょくこの作品を映画館では見逃してしまった。だけど、30歳と31歳のはざまで絶賛宙ぶらりんになっているわたしは、仕事から帰って寝落ちしたために深夜3時にお風呂に入りながら、ちょっぴりの後悔と自己嫌悪を抱えつつ、この映画をみることになった。そして、それはそれでよかったのかもと思った。というかむしろ、このタイミングで、そういうシチュエーションで、みるべき映画だった気がする。

30歳なんて、尊敬する恩師たちに比べたらひよっこなんだよね。だけど、「若いから」の言い訳が通用しなくなってくる年齢でも確実にあるわけで、自分の薄っぺらさに落ち込むことばかりだ。20代後半に打ちのめされてふてくされた時期もあったけど、結局自分の人生は自分にしかどうにもできないので、自分が損するだけだとわかってふてくされるのはやめた。いまはヘコタレながらも、必死に吸収し、咀嚼し、書くことで自分なりの言葉をみつけようとしているところ。尊敬する恩師に、日記でもなんでもいいから書き続けなさいといってもらったので。

書いているときはつまらなく思える言葉も、数年経って読み返したら、こんなことを考えていたのかと驚くほど、自分の言葉が新鮮に感じられることがある。記憶が変容するように自分自身も変容していくので(というか、記憶が変容するのは、そもそも自分自身が時と共に変容していくからだと思うので)、同じ作品をみても/読んでも同じ思いを抱くことは、もうないかもしれない。人間、すぐ忘れちゃうしね。


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