見出し画像

約20年のアイドリングストップを経て

 あなたには随分 昔のことなのに、昨日のことのように 鮮明に頭の中で映像化できる瞬間がありますか。
 私には、あります。約20年ほど前の記憶です。映像だけではありません。私の膝の上で くつろいでいた猫のあたたかさや黒い毛の しなやかな手触りまで、今も そこにいるかのように感じとることができます。とてもノスタルジックで、ほのかなぬくもりを携えた一瞬。
 思い返してみると、その一瞬が私のエンジンが かかった瞬間のように思えてなりません。

 当時の私は、大学生でした。
 場所はオーストラリアのブリスベン。大学主催の短期海外留学プログラムに参加していました。ほとんど英語が話せなかった私。スマホが なかった当時、私の相棒はハンディタイプの紙の辞書でした。辞書を片手に、ホストファミリーと何とかコミュニケーションをとろうと必死な日々です。そんなある日、ホストファミリーから、

「あなたは、本当に日本が好きなのね。」

 と言われました。この時は、不思議と辞書がなくても すぐに意味がわかりました。nurseさえ聞き取れなかった私が、です。どうしてホストファミリーが そう言ったのかは わかりません。私の態度に、何かしらそう感じさせるものがあったのだとは思います。そして、そう言われた時に、沸騰した湯が 鍋からふきこぼれるかのような勢いで、

(あ、私は日本が好きなんだ……。)

 と、心の中に熱をおびた想いがあふれました。私の中に強烈な自覚が生まれた瞬間です。
 その後、ホストファミリー宅の庭にあったベンチに座って、一人ぼんやりと夜空を眺めていました。街中にあったホストファミリーの家。本当に小さく幽かな星の輝きが、ぽつ、ぽつと暗い空に浮かんでいます。風もなく、暑くも寒くもない、過ごしやすい秋の夜。
 ホストファミリーが飼っていた猫のブラッキーが私の膝の上で どーんとくつろいでいました。ブラッキーの あたたかな体温と重みを膝に感じながら、

(ああ……私、日本が、日本の文化が好きだな。)

 海外で異文化と接することで、客観的に日本文化を捉えなおせたからなのだと思います。何だか胸の奥底から込み上げてくるものがあって、目尻にじんわりと涙がたまりました。その時の感覚を どう説明したらいいのかが よく分かりません。スーッと一筋だけ、涙がほっぺたを落ちる感触はほんのりとあったかかったです。

 ただ その後、私は英語にハマって、海外留学や海外勤務などを経験するのですが……。それでも、海外であっても、私の興味の中心は日本文化でした。
 私は 旅先の美術館・博物館をチェックする習慣を持っています。アメリカで私が行きたいと思ったのは、フィラデルフィアとボストン。いずれも、日本文化に関わりがある物を所蔵している博物館があります。ワシントンDCに行った時にも、私はフリーア美術館というアジアの古美術を専門に展示している美術館を まずチェックしました。ワシントンには、映画『ナイトミュージアム2』のロケ地としても有名な国立自然史博物館もありますが、実は行っていません……。
 また、海外勤務をしていた時には、浴衣の着付けや茶道を 現地の人に指導したのも いい思い出です。正直 大変でしたが、自分自身が改めて日本文化を学び直すいい機会となりました。

 そして今、私は日本文化に携わる職人さんたちの話を書く活動をしようとしています。
 様々な技術が開発、改良され、どんどんと変化していく私たちの生活様式。その中で、遺る物と遺らない物が出てくるのは致し方ないことです。変化を止めることは できません。それでも、私は少しでも遺すお手伝いがしたいのです。

 日本の伝統工芸品というのは、日本の歴史・文化が詰まったアイテムです。見た目にも美しいものが多いので、芸術品として捉えることもできるでしょう。
 ただ、それだけではありません。人々が少しでも豊かな生活をするため、その時代に、その場にある物を工夫して使い、生み出してきた技術が詰まった日用品。それが今、伝統工芸品と呼ばれている物の中には多くあります。職人さんたちが 日常生活での使いやすさや機能性までも考え、試行錯誤を重ねて生み出してきた物でもあるのです。
 それが、今でも遺っている。言い換えれば、その積み重ねられてきた祖先の努力の結晶が、人から人へと渡され、今の職人さんたちが磨き続けている技の一つ一つに込められています。私は、そのことに感動してしまうのです。

 古くから存在している物は、それを連綿と『過去』から『現在』につないできた人々がいるから、存在できています。一体どれだけ多くの人の想いが その一つ一つに詰まっているのかを想像すると、私には何物にも変えられない価値があるように思えてなりません。一度 途絶えたもの、忘れられたもの、失われたものは、つないでいくことが困難です。
 現代を生きる職人さんたちは、『過去』から『現在』に届けられたものを、今度は『未来』に手渡そうとしてくれています。だからこそ微力ではあっても、何か私にできることで応援していきたいのです。

 その私の原動力の根底にあるのが、『日本が好き。日本文化が好き』。約20年前に、異国の地の小さなベンチに座る過去の自分の想いに、自然と戻っていきます。

 20年前にかかった私のエンジンは、長いアイドリングを経て、充分にあたためられているはず。後はただ、グッとアクセルを踏み込むのみ!!

#エンジンがかかった瞬間

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?