お盆最終日に思うこと
子どもの頃、お盆休みに祖父母の家に行くのが毎年恒例だった。
祖父母の家に行かないとやれないイベントが満載で、つねに心待ちにしていたものだ。
祖父母の家は、大分にある。
祖父母の家から海水浴場まで徒歩数分。いとこらと一緒に海で泳ぐのがいつも楽しみでならなかった。
それから、花火。
普段はアパート住まい。近所に花火が簡単にできるような場所がなかった。
花火をすると言えば、夏休みの祖父母の家。
浴衣を着せてもらっての盆踊りも楽しみだった。
盆踊り、踊り方を知っているわけではなかった。けれど、浴衣を着せてもらい、あのお祭りの雰囲気に参加できるというだけで、心躍った。
家族が集まるのに合わせ、祖母はいつも刺身を準備してくれた。その当時は、朝捕ったばかりの魚が毎日食べられる贅沢に気がついていなかった。ワガママな私は、から揚げが食べたいなど、今からしてみれば何と不遜なことを言っていたのかと思う。
畑に行く祖父にくっついて、畑仕事を手伝うのも都会暮らしの私には新鮮で、ワクワクする経験だった。
祖父は色々な趣味を持った人で、魚釣り、盆栽。山で目白などの鳥を捕まえてきて、家で育てていた。一緒に鳥の餌を作らせてもらったのも、今となっては大層懐かしい。
そんな祖父は他界して、20年近くになる。
祖父は癌で闘病した後に、亡くなった。
もう余命いくばくもない、というタイミングで祖父に逢いに行った。
やせ細り、言葉を発することもままならない状態だった。
それでも、私の顔を見た瞬間、祖父が見せてくれた無条件の笑顔が忘れられない。
ああ、愛してくれていたんだな。
そう感じた。
正直に言って、お盆というのは私にとって、単なる夏休みの楽しい時間を祖父母の家で過ごす期間の名称に過ぎなかった。
祖父が亡くなってからだ。
今はもう、この世にはいない家族のことが実感できるようになったのは。
この年になって、お盆になると思い出すことがある。
祖父母の家の庭で見つめたご先祖さまたちの送り火だ。
沈みゆく、紫がかった夏の夕暮れ空の下。
迎えた祖霊たちがあちらの世界に無事に還っていけるよう、祖母と一緒に小さな火を焚いた。
祖母と二人、じっと黙って火が揺らぐのを眺めた時間。
何だか切り取った写真のように、ふと脳裏によみがえる。
今、ここに存在している私たちは、家族の誰か一人が欠けても生まれていない。
そう考えると、【この世に今ある】状態そのものが奇跡であり、すごいことだと思ってしまう。
つらいことも、悲しいことも。
叫びたくなることも、逃げ出したくなることも。
そら、あるけれど。
でも、それでも、過去からずっと続いてきている"今"に感謝したい。
私たちが生きているって、すごいこと。
そっと心の中で、感謝の送り火を焚こうと思う。
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