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「分からせる」が人類を滅ぼす


 こんにち、一時 いっときの流行語を飛び越えて既に一般の用語となり、広辞苑にも掲載されている日本語「分からせる」。この言葉が流通して使いやすくなると共に、この言葉の意味が社会権を得たようにその意味するところの行為も社会の権利として一般化されるはもちろん、それを行使することを相互に容易に認める社会になってしまったことが、人類史上最大に嘆かわしい、イグノーベル賞10個分に匹敵する出来事だと、私ベタは信じて疑わない。その行きつく先として私が予見するに、地球人類の世界の破滅がもう数年以内に近づいたと思っている。今からそれを論証する。

「分からせる」の定義

 ここで言う分からせるは、大人が子供に勉強を教える中で、分からないことを丁寧にあるいは雑に教え込むことで分かるようにする、理解できるようにするという旧来の意味での「分かるようにする」の意味ではない事はもちろんである。で本題の「分からせる」の定義とは。

  1. 前述のような勉強を教える段についても、被分からせられ者がまだまだ本質的な理解に達していないのに、強制力をもって公式を暗記させ使用させることを要請し、そしてその公式の成り立ちと意義を説明しない場合はこの「分からせる」に該当する。

  2. なお同様の1の場合において、それほど強要的・強権的でなかった場合でも次の場合は「分からせる」に該当する。

    1.  本人、被分からせられ者が分からせられることを表明的にまたは内面の本心として拒否している場合においては、その原因がどんな理由であろうとも(例えばいま、勉強するのがともかくイヤな場合も含む)、その行為は「分からせる」に該当する。

    2. その際、教える側つまり分からせ者の理論でそれが(生活のために、将来のために等)必要だから分からせようとしている場合であっても、その必要性が究極的であっても(教えないと人類が絶滅する等)、である。

    3. またそれほど強要的な教え方でなかったとしても相手が嫌がっているならばその行為は「分からせる」に該当する。

  3. 学校のような教育現場での教育行為でなくても、また一般教養の学習的内容でなくても、あらゆる場所において「分からせる」は存在する。例えば職場でのルールを「分からせる」。それが社則や事業部のマニュアルにあっても、無くても、上司の胸の内にしかなかった「当たり前」であっても、さらには今思いついた考えであっても、それを相手に強要的・強権的に従順させようとする行為は「分からせる」に該当する。また、直接言わない上司というものも稀にあって、全員必読となっている社長のMLや note(noteで、なんかエアリプめいた主張や社会への不満あるいは主張や、意識高いこうすべき記事や、親切な私の優しい賢いQOLをあげるノウハウ記事も。…noteでやるなんてダッサおっと脱線した)、日報や全社集会でのお小言も、「分からせる」意図を持って主張されたものが混じることは多々ある。

  4. これまでの、教育の機会及び職場での機会の例を挙げたことでこの応用範囲がそれにとどまらず広範に及ぶことは説明をまたない。すなわち、家庭の間でも、近所のうるさいおばちゃんやおっさんからでも、友人だと一方的に思われている知人からでも、DVカレシあるいは彼女からでも、政治家から国民へでも、駅でのエスカレーター左に立つか右かで注意することも、外でマスクをつけるか着けないかも、またちょっとした法律を守るか守らないの正義感からの不良少年への注意も、また宗教家から信者からでも、または政治的デマゴーグを持つテロリストからでも、またその真逆にまったく無意味無気力が故に社会に犯したテロリズムであっても、またSNS、たとえばYahoo!ニュースへのコメントや親切そうに見えるYahoo!知恵袋の回答や、全く他人のTwitterでの個人的な発言を槍玉に挙げての意見リプライなどでも、また誰かのTweetに対してではない「エアリプ」の中にも「分からせる」行為は該当する。

  5. すでにお気づきであろうと思われるが、「分からせる」は行動的行為を共さない場合もあり得る。例えば自分が親の言うことを聞かないことを徹底的に分からせるために「何も言うこと聞かない・返事すらしない」という何もしない行動にでる場合もあるし、言うことを聞かない子とはいえ、愛する我が子である自負がある場合そのことを利用して、「食事すらしない」ハンガーストライキにはいることも沈黙の「分からせる」である。さらに、心理学者アドラーによる「問題行動の5段階」(1段階目は褒めて欲しい「称賛の要求」、第2段階は「注目喚起」、第3段階は「権力争い」、第4は「復讐」)これらも問題がある、とされる側の抵抗的な「分からせる」であるが、特に第五段階目の「無能の証明」は自分が全てにおいて無能であると分からせて全面的に第一分からせ者からの分からせを諦めさせ生活の保護の義務のみを要求するという対抗的反抗的な「分からせ」も、存在する。

  6. すなわちこの世の他者への主張や表現のほぼ全てが「分からせ」なのである。なんなら映画「スターウォーズ」であっても、どうだこんな映画すごいだろうという分からせである。

  7. ちなみに言うまでもないが此の記事も「分からせ」である。

「分からせ」ではない「分からせ」

 人とのあらゆるコミュニケーションを観察してみると、99%が「なにかを相手に教えている・伝えている」言葉だときづく。では、すべての、人に何かを教える行為は分からせなのだ、と言いたいのではない。次の例はさすがに分からせではない。

  1. 「教える」行為に全く該当しない言葉で、かつ、「分からせてやろう」という意志が全くないとき。たとえば、人前、とくに家族や恋人、いやらしい場合には学校の先生の前で「ふぁ~あ。」とあくびを意識的無意識的でも行っていたら、それは「分からせ」であるが、一人のときに生理的に無意識で行ったあくびは「分からせ」ではない。

  2. 教える言葉であっても、強い意思もない場合。例えば「TV のリモコンどこいった?」と聞かれて反射的に「そこだよ」と言うのは分からせではない。しかし、TVのリモコンの所有権を争っていたり、普段はその質問に無視を決め込んでいたり、争っているつもりはなくてもわざと隠していたりしているならば、それは「分からせ」であろう。

  3. 軽度の分からせは、その弊害も取るに足らないものでたり、ことさら反芻して考える必要もなかろう。たとえば、コンビニで会計をしてもらうとき、店員に「1231円になります」と言われるのは分からせではあるが、弊害も場合によっては多少あり得るが、それは滅多にないケースであると思われる。

  4. あえてこれまでの論文的記述をやめて端的に言いきりたいのであるが、それは読書への私ベタへのヘイト(嫌悪感)が溜まりすぎるのを防ぐためなのだが(既に遅いって⁉️)、それは「愛があって親切に無私に行う、教えるは、分からせではない」である。たとえば、母が赤子に言葉を教えるなど。言うまでもあるまいか。

「分からせ」の弊害

 では、もう殆んどの人と人とのコミュニケーションが「分からせ」であると言いたいような論調なのであるが、それのなにがいけないのか。人に知らないものを教えるために、または人と人が理解し合うために必要なのではないか。とお思いになられるであろうが、私は「分からせ」は「ほぼ」全てが必要ないし、してはならないと私ベタは考える。その弊害が甚だしいからである。
 その弊害は、人を物理的生理的に死を高い確率でもたらし得るし、生理的でなくても社会的死を自ら望むケースはその程度の大小はあれど非常に多い。これらの被害者はおそらく人間が5人いれば4人はいると考えている(これは私の多数の経験からである。私の社長秘書的立場では意外と連日大量の人との関わりがあるため、それもその仕事の、用事のあと何故か余計な個人的なお誘いも多いため、そういう誘い文句あたりでかなり、その人のお人柄や得意分野の「分からせ」が見えてくる。そしてその方に関わる方、たとえばその部下や相手方よ秘書さんやら奥様?とも知り合うわけで、どんなめに合ってきているのかが分かってしまう。そんな多数、何百人以上を見てきての上記統計である)、そういう精神的ストライキをかなりか、またはある分野においてか、または密かにか、抱えているように思える。
 ではその弊害たる症状は。

…長くなってきたけど、この先見たい人います??いたらコメントして頂戴。


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