キッシュが冷たくなるまえに 第66話 あくびがとまらない
「じゃあ、その煮汁を冷やします、冷やすと煮汁と油が分離するんだ。表面に油の塊が出来て、その下の煮汁がゼリー状になる。その煮汁のゼリーには旨味が凝縮されていて、それとリエットをよく混ぜるとおいしくなるんだよ。固まった油はリエットの表面にフタのようにかぶせて、空気に触れないようにする」
「リエットって保存食ですもんね、油の塊で酸化させないようにフタをするんですね」
はるかさんはそう言うと、大きなボウルを出してきて製氷機から氷を取り出して入れ始めた。そして水を入れてその上にもうひとつボウルを重ねておいて煮汁を流し込んでいる。
「この煮汁って美味しそうですね、ちょっと一口」
スプーンですくって一口煮汁を飲んだはるかさんは、ちいさく頷いてにこっと笑った。
「濃厚ですねぇ。塩気があって、炒めた玉ねぎの甘味も感じるし、複数のハーブの香りもよくわかる」
はるかさんはスプーンを木製のターナーに持ち替えて、煮汁をゆっくりとかき混ぜはじめると、はるかさんのこめかみから汗が一筋流れて落ちた。
「どう、うまく出来てる?こちらはお客様が全員帰られて、これから閉店準備に取り掛かるけど」
ミカさんが厨房に入ってきて、洗い物の皿をシンクにおいた。
「こちらもほとんど終わってます。あと煮汁をリエットにまぶして油で蓋をするだけです。今試食をしてもいいですが、一晩おいてほうが美味しいと思います。どうしますか?」
「それじゃ、明日はるかちゃんと二人で仕事終わりに試食しようかな?ワインを合せて食べてみたいし」
「そうですね、私もできればワインとのペアリングを試したいから、仕事終わりがいいです。ま、試食にかこつけて飲み食いしたいだけなんですが」
はるかさんはそう言って照れ笑いをして、軽く舌をだした。
「もうそろそろ煮汁が固まってるんじゃない、ほら、油と二層に分離してる」
氷と水で冷やされて、ボウルの中の煮汁はうわばみの白く固まった油の部分と、底のブラウンのゼリー状の部分に分離されている。はるかさんはうわばみの油を丁寧にスプーンですくいとり、小皿に乗せると、冷蔵庫にしまっておいた豚バラのリエットをゼリーの中に入れてターナーで混ぜ始めた。
「混ぜ終わったら、このココットに入れて、油で蓋をしてください」
あらかじめ出しておいた手のひらくらいの大きめの白い陶器をはるかさんに手渡した。はるかさんは言われた通りにココットのふちいっぱいにリエットを入れず、ちゃんと油が乗る数センチ開けてつめ終えると、白い油をスプーンで丁寧に均すように表面に塗っている。ココットのふちギリギリになるまで詰め終えたが、若干リエットも油も余ってしまった。
「これで完成、でも思ったより量が多かったね」
「翔太さん、このあまりを持ち帰って試食してくださいよ、ちいさいココットに入れて持ち帰って、自宅でお父さんと晩酌のアテに食べてください」
はるかさんはそう言って、戸棚から小さめのココットを取り出してきて、せっせと詰めはじめた。
「もらっちゃっていいの?はるかさんが作ったリエットだって言ったら、父さん泣いて喜ぶよ」
「だとうれしいです。感想も聞いておいてください」
ココットいっぱいにつめたリエットをラップで蓋して小さな紙袋に入れて手渡ししてくれた。
「それじゃ、私閉店作業にかかります。今日は本当にありがとうございました。早く帰って寝たほうがいいですよ、さっきから欠伸をかみ殺していたでしょ?」
「バレてた?上手く隠したつもりだったんだけどな」
「朝から仕事して、ここでまた試作して、カウンターにもでて、明日は土曜だから、午前中はキッシュ焼かなきゃいけないし。家でゆっくり休んでください」
確かにそう言われると身体が重い、だがスポーツ後の疲れのように心地いい。
「じゃあ、お言葉に甘えて帰ります」
そう言うと何度目かの欠伸をかみ殺し、はるかさんに一礼してバッグとジャケットを持って厨房からでた。床を掃いているミカさんと目が合い、一礼するとまた欠伸がでた。
「ご苦労さん、早く寝なさいね」
と笑うミカさんに再度一礼してドアを開けて外に出た。駐車場のどこかで微かに鈴虫の鳴き声が聞こえる。一瞬吹いた風は、けやきの街路樹の葉を揺らしたが、もう生暖かくなく、思ったより冷たくて、腕まくりをしていたシャツをおろしてボタンを留めた。あぁ、完全に秋になったんだなと思いながら車のドアを開いた。
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