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女風料理人リウ、恥ずかしながら童貞です 第一話 クレオパトラの夢 4

  県道から左折すると、私道の長い坂道が待っていた。左右には白樺の木々がそそり立っていて、鮮やかな黄緑色の葉と白い樹皮に包まれた幹が美しい。改めてここが標高1000メートル越えの高地だと思い直した。先日買った中古のプジョー206を1速にシフトダウンしてアクセルを踏み込むと、1.4ℓの非力なはずのエンジンは、ソレックスのキャブレターのせいかグイグイと急な坂道を登っていく。23年前に作られた、棺桶に半分脚を突っ込んだ婆さんのような車と思っていたが、JKの短距離走者のような加速の走りにちょっと驚いた。この年式ならば本当だとスクラップになっていてもおかしくないのだが、このフランス製のチープな小型車は、ラリーで鍛えられた耐久性のせいか、令和の今でも現役のように走らせることが出来る。廉価版でマニュアルという一番一般受けしないグレード故に売れ残ったこの車は、イタリア、フランス車専門の中古車屋、いわゆる「イタフラ屋」で数年買い手がつかず、スクラップになるのを待っていた。ぼくがこのボロ車をイタフラ屋サルベージして車検、その他諸費用コミコミ30万で買い取ったのは三月初め。はじめはマニュアルの運転に悪戦苦闘していたが、今ではちゃんと運転できるようになっている。エンストは一日に二回までに減ってきたので、「乗りこなしている」といっても差し支えないだろう。

 急な坂道の途中から、チューダー朝の建物が見えてきた。赤茶色のレンガ造りの一階に白い漆喰の壁、日本の真壁作りのように、濃いブラウンに染められた木の構造物が壁から浮き出たデザイン、桐妻形の屋根が左右に広がっていて、その屋根には小さな煙突と出窓が見えた。イングランド北部のランカシャーやフランスのノルマンディー地方のような日本とは異なる異国感が漂っている。こんな15から19世紀の様式の別荘を持っているだなんて、さすがにミカは他のお客とは違うなと、ミカ思い知らされた。
 プジョーは大きく車体を上下に揺らすと視界が平らになった。坂道を登り終えてミカの別荘に着いたようだ。インターロッキングのブロックで作られた駐車場は、明るいブラウン、濃いブラウン、グレイの三色がモザイクのように散りばめられていて、車が数台おけるスペースがある。その前には緑の蔦をはわせたコンクリートの屋根付きのガレージがあって、チューダー朝の建物はその上に立っていた。そのガレージの奥に庭があり、円を描くように敷き詰められたレンガと軒下にはパーゴラが設置してあって、洋風の景観をさらに印象深く演出している。パーゴラにはわせた藤の枝の間から、柔らかな春の日差しが金属製のテーブルと椅子、レンガを照らしていて、白樺の木漏れ日や高原のそよ風を身体に感じながら、ゆったりとお茶を飲んだり、読書をしたりして、優雅に時間を使っている自分を想像してしまう。しばらくの間ここでの生活は、都会の慌ただしい生活とはまったく違う生活になりそうだ。

 残念ながら庭や駐車場のインターロッキングのすきまから雑草が伸びている。それをを除けばパーフェクトな環境だ。当分草むしりの日々が続くのかとウンザリするが、この高原の自然と早朝の空気と静けさは、ちょっとヒンヤリしているが、都会の排ガスだらけ、ノイズだらけの環境とちがって新鮮だ。たまに肉体労働もいいだろうと自分に言い聞かせて車からでて玄関に向かって歩き始めた。振り返ると、長い坂道の向こうに軽井沢駅の周辺が見えた。その坂の上の真っ青な空を見たことがないオレンジ色の腹をした鳥が飛んでいた。その鳥は、聞いたことのない甲高い声で鳴きながら空高く飛んでいって、そのうち見えなくなった。

 どう見ても輸入建材の木製のドアを開け玄関に入ると、ホールから階段が見える。海外のドラマで見た光景だ。玄関のホールからすぐそこはリビングダイニングになっていて、二階まで吹き抜けになっている。奥のキッチンからカウンター越しにダイニングテーブルがあって、皮張りのソファーに暖炉があり、ビクトリア調のインテリアでまとめられていて、シャーロックホームズの古いドラマに出てきそうな雰囲気だ。ありがたいことにそんな大きい部屋でもなく、意外にこじんまりしていて小市民のぼくには居心地がよさそうだ。ただしホコリが凄いのとちょっとすえたカビの臭いがする。靴箱からスリッパを出して履き、リビングダイニングを一通り見渡すと、ソファー上のホコリ除けのシーツを外して、ソファーの上にバックパックを放り投げた。とりあえずまずやらなければいけないことは掃除だ。ぼくは一階の窓を全て開け、新しい空気を入れ替えて、掃除道具を探し始めた。

 ミカによると、使うのは一年に数日で、GWと夏休み、秋の連休と一週間くらいしかつかっていないそうだ。ミカは今年のGWはここを使わないので自由に使っていいと言ってくれた。これから夏までここを起点に商売を始めるつもりだ。かりそめで借り物ではあるが自分の城なのでちゃんと綺麗にしたい。マスクを着けベースボールキャップをかぶってスエットに着替えた僕は、去年の秋から溜まったホコリを掃除機で吸い続けている。三月末の軽井沢は真冬といってもいい気温だが、額に汗が滲み始めてきた。一階を終えて、二階の二つあるベッドルームを掃除し終えたらもう昼間で、バックパックの中から取り出したサンドウィッチを取り出し、冷蔵庫からコーラを拝借して皮張りのソファーに腰を下ろした。このままさっさと食べてしまって掃除の続きをやろうかと思ったが、このインテリアの中で、直接ペットボトル口をつけて飲んだり、プラスチックの袋から直接手づかみでサンドウィッチを食べるのはどうかなと思ったので、キッチンの戸棚からビストロで使いそうなカジュアルなオレンジ色の縁取りの皿と、ステムが短い低重心のワイングラスを持ってきてテーブルの上に乗せてみた。サンドウィッチを皿に乗せ、グラスにコーラを注いだだけだが、心なしか豊かな気持ちになるのが不思議だ。カビの臭いも取れて、綺麗になりつつある部屋を見渡して、この家での最初の食事を独り静かに取り始めた。

 

 

 

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