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【第41話】キッシュが冷たくなるまえに

 父さんが冷蔵庫から日本酒を出してきた。720㎖入りの4合瓶で、地元の酒造メーカーの本醸造酒だ。この県のスーパーならどこでも手に入る最も一般的酒蔵のもので、特に高級な物ではない。父さんは食器棚から冷酒用の徳利とおちょこを取り出してテーブルに置いて、日本酒をその徳利に注ぎ始めた。津軽の伝統工芸品のガラス製の物で、レトロな雰囲気を出すためにびいどろと呼ばれているらしい。厚めのガラスで透明感があり、表面が鱗のように凹凸がつけられていて、洗練というより素朴な酒器で、サンマが乗っている皿と手触りが似ている。徳利に8割ほど日本酒を満たし終えて父さんは着席をした。
 「じゃぁ、いただきます。はるかさん、こんなに大きいサンマをありがとう」父さんの感謝の一言を聞いて、家族みんなで合掌をして夕食が始まった。僕は大根おろしに醤油をたらし、サンマの背骨に沿って箸で切れ目を入れてゆく。表面のパリっとした感触と、身の柔らかさと骨のデコボコを箸の先端で感じながら、頭から尻尾に背骨に沿って箸の先端を一気に動かす。一番細くなった尻尾の付け根の皮と骨の部分がいちばん硬い。ここを箸で切り取るのに苦労するが、今日はなんなく切り取れた。この尻尾の部分さえうまく切り取れればサンマはきれいに食べられる。後は背骨から上の身の部分と下の身の部分を上下にスライドさせて剝がしていけばいいだけで、わざわざ左手を使わなくても綺麗に食べられる。背骨の裏側の身もしかりだ。
 「油が乗って美味しい。ビールが進むわ」
 満面の笑みでサンマを咀嚼して、缶ビールで流し込む美穂を見ながら僕も大根おろしをサンマの身に乗っけて口に入れてみる。大根おろしのみずみずしさ、ちょっとした辛みと醤油と焼いたサンマの香ばしさが一緒くたになって、噛みしめるたびに唾液がにじみ出てくる。咀嚼してもなお口の中に残っている旨味を、お猪口に入った日本酒で流し込むように飲み込んだ。
 「いやぁ、ビールでもいいかなと思ったけど、日本酒は美味しいね。本醸造酒って醸造アルコールが入っていて、淡麗でキレがあるっていうけど、フルーティー過ぎないのがいいんじゃない。まさに食中酒って感じで、どんな食事にも寄り添ってくれる」
 僕はわかったような実はわかっていないのがバレバレなことを言ってしまい、博識ぶった痛い輩みたいなことを言っちゃったなと反省をした。恥ずかしさを隠すように炊き込みご飯をかきこむ。豚小間とブナシメジとえのきを炒めてから炊いたって言っていたけど、確かに炒めただけあってメイラード反応で香ばしくて、噛みしめるとかすかにみりんの香りがする。確かにこってり感があり、口内と喉の奥に油と焼いた豚肉の香りが残る感じで、ビールでこのこってり感を洗い流さないと、何杯でもおかわりをし続けられそうな中毒性がある。
 「この炊き込みご飯、病みつきになりそう。炊き込みご飯で具を炒めるなんてよく考えたね。鶏肉じゃなく豚小間でこってり感が増してる。ビールが進む炭水化物って、ダイエットの敵以外の何物でもないんですけど」
 そう言って缶ビールを飲み干す美穂を見つめながら、父さんは手酌でゆったりと普段飲みクラスの日本酒で盃を傾けている。残暑が今だ厳しい9月の後半の夕暮れ時、音楽が途切れた瞬間、窓の下あたりから鈴虫の鳴く音がはっきり聞こえて来て、遠くでかすかにヒグラシの鳴く声が聞こえた。なにげなく開け放った窓の外を見上げると、空の色が紫色から橙色に刻々と移り変わって鱗雲を照らしていく。すぐにも今年の夏は過ぎ去っていくだろう。夏が過ぎ去れば、実りの秋がもうすぐそこまで来ている。今年の秋は誰とどんな美味しい物が食べられるのか、できればあの子と・・・。そんなこと考えながらサンマを食べて、びいどろのお猪口をくいっと飲み干した。

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