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【第56話】キッシュが冷たくなるまえに

 「おっ、帰ってたんだ。試作はうまくいったの?」
 引き戸を開けて姉さんがキッチンに入ってきた。テーブルの上の芋焼酎を見て、「私もいただこうかしら」と言ってグラスを戸棚から出すと、冷蔵庫から氷を出してグラスに入れてテーブルの上に置いた。父さんが芋焼酎を注いで、ペットボトルに残った炭酸水を残らずグラスに注ぎ込むと、ちょうどグラスにすりきれいっぱいまで満たされて、表面では炭酸の泡がシュワシュワ音を立てて弾けている。姉さんは口をグラスまで近づけて、ちょっとだけ飲んでマドラーでグラスの中をかき回した。十分混ざったと思ったらしく、椅子に座りもせずにグラスの中身を半分ほど飲み干して、ようやく席に着いた。
 「ずっと喉が渇いてままゲームをやってたから、冷えた炭酸水と焼酎が五臓六腑に沁みわたるよ」
 姉さんは芋焼酎をもう一口飲んで、イカフライを袋から取り出してかじり始めた。
 「試作は大体うまく行ったよ。明日試食しもう一つの試作のリエットを作る予定」
 「リエットってなんだっけ?豚肉と玉ねぎを煮込んでペースト状にしてパンに塗って食べるやつだっけ?ちょっと塩っ気があってハーブが効いてるやつ?」
 「そう、凪人の店で前菜の中の一つにあったでしょう?あれを作るんだよ。簡単だし、もとは保存食だから日持ちするし、二週間に一回くらい作ればいいだけだから楽でいいでしょ」
 「あら、そう」
 姉さんはそう言って僕の顔をジロジロ見つめている。首をかしげ怪訝な顔をすると頬杖をついて、僕の顔をのぞきこむようにして何か考えている。
 「何かあった?聞いたげるから言ってみい?」
 姉さんはニヤっと笑うと、瞳の奥がキラッと光った気がした。どう見ても半笑いで、興味本位で聞いているだけで心配なんてこれっぽっちもしてない表情だ。まさか凪人とはるかさんのことをここでいう訳にはいかんだろう。父さんもいるし・・・。
 「おんなでしょ?図星だわ」
 勝ち誇ったように姉さんは笑っている。
 「具体的に言って欲しい?」
 「何か知ってるの?何?」
 余計なことを言ってしまったと思ったがあとの祭りだった。この一言で僕は完全に主導権を握られてしまった。髪をかき上げた時に額に若干の汗が滲んでいるのがわかった。
 「知ってるよ。教えてほしい?あなたの知りたいことは、はるかさんのことでしょ?」
  僕は固まったまま身動きできないでいる。大粒の汗が一粒すうっと背中を流れて落ちた。
 「図星でしょ?昨夜はるかさんはどこで何をいたでしょうか?わかるかなぁ?」
 僕は生唾を飲む込むと、ゴクリと喉仏が鳴った。心臓の鼓動が速くなって苦しくなってきた。
 「どうしようかなぁ、教えよっかなぁ・・・」
 主導権を握った姉さんは、思わせぶりな態度で完全にこちらをからかっている。この状態がずっと続くと思うと気が遠くなる。
 「多分、昨夜はるかさんは凪人と一緒にいた。大人の関係にもうなってる。あたりでしょ?」
 僕は焦らされるのが面倒くさくなったので、自爆覚悟で
 「昨日の夕方帰宅の途中で私が見たのは、とあるマンションにはるかちゃんの白のスクーターが停まっていた。その駐車場には見覚えのある車が停まっていて、その車は黒のJEEPのレネゲード、凪人君のお店の駐車場に停まっていたものとほぼ一緒のように見えた。凪人君の性格なら乗っている車はレネゲードじゃないかなと思っただけ。そのマンションに凪人が住んでるか、はるかさんがそのマンションで誰と何をして過ごしていたかは知らないわ」
 姉さんはそう言ってツンと横を向いた。父さんはだまって芋焼酎のソーダ割りのグラスを傾けて聞き耳をたてている。父さんもはるかさんのことはお気に入りなので、気が気じゃないのだろう、表情が渋い。

 「で、なんで翔太は大人の関係があるって思ってるの、何か確信することでもあるの?」
 姉さんは椅子に浅く座り直して前のめり気味に話を聞いてきた。
 「インスタで凪人の店検索して見ていて、綺麗な女性に挟まれた凪人の画像をはるかさんに見せたら、彼女ちょっとご立腹になってさ、その様子をみていたら過去にもこんなことがたくさんあったなぁと思いだしたんだ」
 僕はスマホで凪人が笑顔で美女二人に挟まれている画像を姉に見せた。姉さんは僕のスマホを奪って#nagitoの画像をスクロールしている。その中には綺麗な女性に囲まれた凪人の画像があるわあるわ、枚挙にいとまがない。
 「でも、それだけじゃわからないわよ。他に証拠みたいなものはあるの?」
 「凪人がゲームのように女の子と関係を結ぶのをどんだけ見てきてると思ってるの?はるかさんはいつもボートネックのロンTじゃない?あいつ女の首筋にキスマークつけるの大好きで、今晩ミカエルに行ったらボタンダウンのシャツの襟で首筋を隠していた。よく襟を気にして上に引き上げる動作をしていて、なんだか不自然で様子がおかしいなとは思ったんだ・・・」
 喉が渇いた僕は芋焼酎を一口飲む。言いたくても言えなかったことを一気に吐き出せてちょっとだけ楽になった。結局姉さんが聞きたいことを僕から全部引き出してしまったのだけれども・・・。
 「ボタンダウンのシャツねぇ・・・。確かに怪しいかも」
 そう言って椅子に深く座り直した姉さんは天井を見上げながら何かを考えている。思い出していると言ってもいいかもしれない。
 「凪人君の店で帰るときにあなたはキャッシャーに行って私はトイレに行ったでしょ?あのとき凪人君とはるかちゃんは二人っきりよね。そのときに連絡先を交換したんじゃない?実はちょっと様子がおかしいって思っていたんだ」
 「多分そうだね、タイミングとしてはそこしかないよね。なにがいちばん悔しいかっていったら、はるかさんも女だったんだってこと。凪人に即落ちちゃうなんて・・・」
 事実上の敗北宣言をして僕は残った芋焼酎を飲み干した。


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