独逸に在るか未だわからないままのもの【未完】
母方の叔父はみかん農家をしている。
3年前から1人暮らしだ。
背が高く、肩幅も広い。
大きな目で睨まれると、驚いてしまう人もいるぐらい
迫力がある人間だ。
それなのに、少しシャイでとても繊細なので
人と話す時は緊張してしまって言葉が強くなってしまう。
職人なので器用なはずだが、不器用な人だ。
叔父は、わたしの母である叔父の妹と
よく言い合っているように思う。
本人たちはそのつもりがないと言うが
方言もあってとても早く話しているように聞こえてしまうのは事実である。
実際のところ、叔父と母は性格が大きく異なるので
わたしが間に入って取り次ぐということがここ最近では何年も続いていた。
強面であるのに寂しがり屋だというのは、それだけで苦労が多かっただろう。
叔父が一人暮らしになった後、私たちは以前より増してよく電話をした。
どうでもいいことを延々と1時間以上話すようなこともあれば
朝が弱いわたしのお願いとして、電話をかけてもらうということもあった。
わたしは寝過ごす心配をすることなく安心して眠ることができるし、叔父も誰かと話すことができるので
良い方法でお互いの関係を維持できると思っていた。
そしてその少しだけ奇妙な関係性は、わたしが所謂派遣社員として、
一般的に規則正しい生活と呼ばれる生活をしていたこの1年間の我々の日課となった。
派遣社員と言えど、就業先は大企業だった。
両親も驚いたし、何よりわたしも驚いた。
誰もが一度は耳にしたことがある世界的なドイツの会社で
偶然にしてもそういった企業で就業できる機会はそうそうないのではないかと思った程であった。
大変さなど想像もつかなかった。何もわからなかったからこそ、気持ちは跳ねるばかりだった。
就業してからは、なかなかに忙しい日々が続き
さすが大企業は忙しいね、と思いながら淡々と過ごした。
一般企業をよく知らなかったわたしは、こんなものなのだろうなとさえ思っていた。
実際に、きっとそういうこともよくあるものなのだろうと思うが
入って数ヵ月のところで、予定されていた残業時間との乖離があることに気づいた。
仕事をしてもしても、毎日必ず残業が発生するのだ。
誤解を恐れずに言うと、当初の時点のみであれば、大した残業時間ではなかった。
しかしながら、そういったことを想定していなかったために
少しずつ体調を崩す日もあった。
わたしは睡眠時間を長く取らないとすぐに体調が悪くなる人間なので
今冷静に考えれば、生活スタイルと合っていなかったと気づくことができるのだが
その時はもう少し頑張れるはずだと思いたかった気持ちが大きく、多少無理をしてでも業務を続けた。
肌寒くなってきた頃、健康診断の結果が出て、重度の貧血状態であることが判明した。
決して今回の多忙な生活のせいだけでもなく
またその数ヵ月で発生した急激な悪化でもなく
おそらく何年かにかけて緩やかに血液中の鉄分が不足していったため気づかなかったのだろう
ということが医師の見解であった。
処方された鉄剤を数週間飲んで、そうだったに違いないということが改めてわかった。
身体が軽くなり、朝も以前より起きやすくなった。
駅のエレベーターじゃなくて、階段でもいいかなとさえ思えるようになった。
相も変わらず、わたしは叔父に毎朝電話をしてもらっていた。
人付き合いが得意ではないわたしたちの、誰かと話す貴重な時間であった。
昨日はこんなことがあったよ、とか、こういう言い方をされてあんまりだと思った、とか
そんな話を、まるで一緒に生活しているかのように話した。
叔父の声の後ろで時折鳴く鳥や虫たちの音を、懐かしく、羨ましく思いながら
離れている間もわたしたちは同じ時間を過ごした。
ある日あまりにわたしが落ち込んで、夜に泣きながら電話をしたことがあった。
叔父は慌てた声をしていて、つい先週10Kgのみかん箱を受け取ったばかりだというのに
またみかんを送ってやるから、今はみかんを食べて落ち着きなさいと
たった今、みかんを食べていると申告したばかりのわたしに促した。
叔父のみかんは甘い。
それはわたしが甘党だからだ。
叔父は彼が所有するみかんの木で、その年の一番甘いみかんが実った木を選び出してわたしに送ってくれる。
わたしは酸味があるみかんは食べれない。
多少ならまだしも、甘くないみかんを食べる意味はないとさえ思うほどに叔父のみかんしか知らなかった。
それがどれだけ恵まれているかということは
2週連続で到着したみかん箱が教えてくれた。
10Kgの箱が玄関にいくつも並ぶということは
見ていて焦りしかなかった。
どう考えても消費が追い付かず、多くを駄目にしてしまうことが明確であった。
大家さんにももらっていただいた。行きつけのケーキ屋のおじいちゃんにも渡した。
友達にだって押し付けた。
それでもなかなか減らなかった。
その時の決断がよかったのか悪かったのかはわからない。
わからないのだけれど、多分、悪くはなかったのだろうと思いたい。
人は一人では生きていけない。
だけどたまには一人になりたい時もあるし
他人と関わることが億劫になって、いっそ一人で居たいと思うこともある。
わたしを含め、そういった性質が強い人間たちが
試行錯誤しながら自分なりに生きてきた結果、
偶然にもどこかで繋がることがあるのだ。
職場の人たちは皆喜んでくれた。
こんなに甘いみかんは食べたことがないと言ってくれる人さえいた。
今までは身内や、身内の知り合い程度の範囲内での評価しかなかったのに
都会の大企業に勤める洗練された人々が喜んでくれたということもあり
叔父にとって嬉しかったのだろう。わたしにとっても嬉しいことであった。
いただいた感想を叔父に伝えることは、喜びを何倍にも膨らませた。
暫くして、また10Kgの箱にいっぱいのみかんが詰まって届いた。
こうして私は、毎日職場へみかんを運び、食べ、時には出会った人たちに配るという
完全にみかん農家の関係者となってしまった。
もちろん悪くなったみかんを見るよりは、誰かに食べてもらった方が嬉しいので
毎日少し多めに持って職場へ行った。
蛇足であるが、この時期のわたしの朝ごはんは毎朝みかんである。
朝も昼もみかんを食べる日々が延々と続くのである。
寒さが厳しくなった頃、みかんの他にも雑柑と呼ばれる
オレンジのようなものも送られてくるようになった。
わたしは非常にズボラな人間なので、その雑柑たちの皮の厚さには手を焼いていた。
産地直送なだけあって、中身だけでなく外見まで瑞々しいのである。
ある時、職場でよくしてくれた人が、その雑柑を美味しい美味しいと好んでくださった。
そうしてわたしたちは、お昼にみんなで雑柑をシェアすることを毎日の日課とした。
雑柑を好んでくださった方は、皮を器用にむいてくださった。
途切れ目がなく、まるで器のようで、こうやって食べると綺麗に食べれるのだなと
ボロボロになった皮を見て思った。
その翌日からその方はわたしの分の雑柑の皮もむいてくださるようになった。
厳しくなる寒さと、じわじわと増える感染症の恐怖を、少しだけ和らげる安らぎがあった。
何よりも叔父の柑橘の周りに人が集まるというのは、どこか誇らしかった。
その時は、毎日持てるだけの柑橘を持ち歩いて職場へ通うという生活を送っていた。
時々、調子に乗って食べ過ぎてしまうことがあった。
果実のほとんどが水分なので問題はなかったが、食べた後のお腹の苦しさは毎回後悔さえしていた。
ある時、食後にゴミを捨てながら
「お腹いっぱいだなあ」とつい口にしてしまったことがあった。
ウォーターサーバーの前で身体を小さくしながら水を注いでいた外国人男性が
少し微笑んだ気がしたので気恥ずかしくなり
照れ隠しのつもりで、I'm full...と付け足して補足した。
外資系の企業であったが、外国の方を見かけることは多くない部署だったのでなんとなく補足した。
そうしたらその方は体制を起こし、こちらに真っ直ぐと姿勢を正した。
結構身体の大きな方だったんだなとぼんやりと思っている間に
「お腹いっぱいになるまで食べる方が好き?それとも八分目が好き?」という趣旨のことを
早口の英語で問いかけてきた。
頭の中では正直どうでもいいかなという気持ちが大きかったのだが
お腹いっぱいまで食べるのはあまりよくないと聞くし八分目ではすぐにお腹がすく。
しかしながらどういった回答をお望みなのだろうかと無言で考えた。
そうこうしていたら、わたしの様子をうかがいながら少しゆっくりとした口調で
「お腹いっぱい食べる方が好きかい?腹八分目の方が好き?」と同じ内容を問われてしまった。
ますます、置かれている状況の判断ができなくなったため、少しだけ混乱したわたしの口からとっさに出た言葉は
「Do you like fruits?」であった。
そのまま、お弁当袋に残っていた今日最後のみかんを差し出してしまった。
彼はあっけにとられた顔をして、「え、僕に?」とか「いいのかい?」みたいなことを言っていたと思う。
質問に答えず失礼だったかな、とか、もらっても嬉しくないかもしれないという気持ちがあったので
「ちょっと小さすぎるんだけど、よかったらもらってほしいです」と付け加えた。
正直に言うと、彼を最初に見かけたとき身体を小さく丸めていてどことなく悲しそうな雰囲気だったので
目を見開いて「そんなことないよ、すごく嬉しいよ。ありがとう」と表情が明るくなったことに安堵した。
きっとこの人は食べることにこだわりがあるんだなと思うと同時に、
今彼の口から発せられたThank youのアクセントはどこかで聞いたことがあるかもしれないと気づき
「いいの、どういたしまして」言うことが精いっぱいとなり、足早にそこを立ち去った。
その日は定時で帰りたかった。
少なくとも定時より30分過ぎた頃には職場を出なければ
整体の予約が間に合わなくなるという事態になりそうであった。
そんな中で、定時10分前ぐらいに「多分この子~!」と社内の誰とも仲がよさそうで
わたしにもとてもよくしてくださっているお兄さんが連れてきた、
美しい女性の方が息を切らしたまま「今日、社長にみかんを渡しましたか?」と問うてきた。
途中から気づいてはいたけれど、やばいことになったと思ったわたしは
挙動不審になることを最大限に抑えたが
「あれはやっぱり社長だったんですね~!」と元気よく答えることしかできなかった。
その美しい方は秘書の方で、わたしのせいで、みかんを渡してきたあいつを探せという
無駄な業務が増えてしまったのだと瞬時に理解した。
申し訳なさが極まって、一刻も早くその場を去りたかった。
そのために「社長がお礼を言いたいと言っています」という言葉に対しても
「いえいえ、大したことはしていないです。よろしくお伝えください」と回答してしまったし
情報屋のお兄さんにも「この人と一緒だったら話したいことを伝えてもらえるよ」と言ってもらったが
「言葉は通じましたので大丈夫でしたよ」と答えてしまった。
もしかすると、あの時、社長室に連れていかれそうになっていたのかもしれないが
バキバキの身体と疲れた脳は、整体の予約が最優先事項と判断して、結局は立ち去った。
翌日、念のためいつもとは別の袋に、みかんと雑柑を多めに詰めて職場へ向かった。
何もなければ、みんなで食べればいい。みんなじゃなくても自分で食べるか持ち帰ればいい。
備えがあれば何とかなるだろうと思いたかったのだ。
いつものように起動するパソコン。ネットワークに繋がったら、メールも立ち上げ…
メール、来とる。社長から、メール、来とる。
件名:Orange!は、かわいい。つらい。
内容もかわいい。感想がかわいい。つらい。
わたしは、英語を多少喋ることが出来るのだけれども
英語の読み書きは苦手だ。喋ることに比べたらどうしてそんなに理解が遅いのかと
誰もが不思議に思うだろうけれど、アルファベットで構成された文字を読むことが苦手なのだ。
正確には、自分で読み上げて発音することができる単語は言葉として認識できるのだが、読み方が全くわからない単語や
一つの単語にいくつも母音が存在しているような単語はすぐに認識することができない。
いつも音を頼りに生活していたら、いつの間にかそうなってしまっていた。
(※洋画・海外ドラマ・洋楽が大好きなティーンエイジャーであった過去を持つ)
今は単語の綴りを読み上げてくれる機能なども充実しているし
本気で勉強をしたら、もっと読めるようにもなるのかもしれない。
だけれど、スムーズに読めないことで諦めてきたこともあったし、好きなものはほどほどに好きでいたかったので
ツールとしての英語に本気になって向き合うことはなかった。
そういったわけで、かろうじて読めるメールであったけれども
書くことはどうしたらいいのかわからなかった。
英文のビジネスメールなどは書いたことがなかったし、
件名:Orange!はビジネスメールとも異なるような気もした。
一生懸命何かを書いたとは思うが、そのほとんどが何だったかを忘れてしまった。
返信もなかったし、それでよかったのだろうと思った。
昼休みになり、引き出しを開けたら、そこには大量の詫びみかんがあった。
先ほどの罪悪感は拭いきれておらず、また、社長室がどこかも知らなかったわたしは
途方にくれるしかなかった。
だがしかし、巡りあわせは整った歯車の動きのようにぴったりと合うこともあって
社長のデスクがどこであるかが判明し、社長と再会することができた。
わたしは詫びた、昨日の無礼を。また、社長だと認識できていなかったことを。
社長はとても困った顔でオロオロとしながら「昨日の僕はとてもハッピーだったから何も謝らないでほしい」と言ってくれた。
わたしは「でもわたしは昨日、あなたが誰だかわかっていなかったのです。すみませんでした」と重ねてお詫びをした。
社長は少し天井を見上げたあとに「でも昨日からは知っているよね!🥰」と嬉しそうに言った。
泣きそうになっていたわたしはもう「はい!知ってます!🥰✨」と答えるしかなかった。
いよいよ社会が感染症の脅威を真剣に捉え始めたあたりでも
わたしが所属していた会社は在宅勤務だとか出社禁止だとかになる気配はなかった。
少なくとも所属していた課は、最後まで対象にはならなかった。
全く先行きが見えず、非常事態宣言が出そうな時であった。
わたしは給湯室で、また背中を丸めながら悲しそうにマグカップを洗っている社長に出会った。
こんな表現は失礼に当たるのかもしれないが、本当に悲しそうな雰囲気を纏っていた。
わたしはお手洗いにいくつもりだったのだけど
あまりにも悲しそうだったので、思わず声をかけてしまった。
重くなりすぎないようにと気を遣った結果「またお会いしましたね!😉」とか言ってしまった。
「ああ、君か。調子はどうだい?健康には気を付けてくれたまえよ」というようなことを言ってもらった気がする。
「こんなことになっちゃって…もうみかんを渡しに行けなくて悲しいです」とありのままの心情を伝えたところ
社長はとても驚いた顔をして、やはりオロオロしながら「そんな……僕を呼び出せばいいじゃないか!」と言い放った。
え?
それだけはないよ、それだけはない。でも正直相変わらずみかんは家に余っている。
特に今日なんて虫の居所が悪くて、一人でご飯を食べたので袋いっぱいのままで持ってる。
「あっ!じゃあ!そうしたら!待って、待っていてくださいますか?」
人間、焦ってしまうとどの言語でもカミカミでうまく話せなくなるのだなと知った。
わたしの焦りを見て不思議そうな顔をする社長。
だがさすが社長だよ、察しがいい。
「……今か?」
無言で首を縦に振るわたし。言葉が出てこなくなるほどにいっぱいいっぱいであったのだが
社長は「待つ!」と言い放ってくれた。
すぐさまデスクに戻り、スーパーの袋にぎゅうぎゅう詰めにされた柑橘詰め合わせを
再び給湯室まで運んだ。
マグカップを洗い終わっていた社長は、再び元の大きさに戻っており、悲しそうな顔もしていなかった。
袋の中から柑橘類を取り出して「これは前にもお渡しした種類で、これは渡したことがない種類です」
叔父が教えてくれた通りに誇らしげに柑橘の説明してから顔をあげると、わたしの勘違いなのかもしれないけれど
社長の目は少しだけうるんでいて、「本当に感謝しているよ、叔父さんにはよくお礼を言っておいてね」と
神妙な面持ちでゆっくりと言われた。
なんだか急に大げさなことになってしまったな、と少しだけ困ってしまったので
「難しい時期にこそ、何かハッピーなことは必要です」と笑顔を作って見せた。
社長の顔はほころび
何故そういうことになってしまったのかはよくわからないのだが
みかんが入ったスーパーの袋を顔の横に掲げて「ハッピー」と言ってくれた。
控えめに言ってもめちゃくちゃかわいかった。
王に仕える忠誠心みたいなものが何かわかったような気さえした。
今時の表現をすると、マジ一生推す。って感じだった。
それから暫くは、全く在宅勤務を想定していなかったこともあり
どのような働き方になるかわからないという不安や
どうやっても在宅勤務ができない仕事も世の中にはあるということ
また、そういう仕事があってなんとか世界が成り立っているのだとと
まるで自分に言い聞かせるかのようにそう思うことにして
座ることができるようになった電車に乗りながらただただ職場に通った。
不満が全くなかったわけではなかったし
もっと努力すべき点も多くあったであろうと思う。
しかしながら、それについての言及は避けたい。
我々は決してベストな選択が出来たわけではなかったであろうが
それでも必要に応じて柔軟には対応してきたはずだ。
誰もが何かしらの形で我慢を強いられ、それに対しての社会的混乱は
大きすぎるものではなかった。
わたしが最低限の情報しか見聞きしないようにしていたせいもあるが
冷静な人たちが多かったように感じた。また、努めて冷静になろうとしている姿もあった。
それだけでも、誰しもの努力は評価されるべきだと個人的には考えるし
完全には終息していない現時点ではここまでに留めるべきであろう。
社内では早々とマスクの着用を義務づけられ、
出社する人々の数も制限された。
やはりわたしが所属していた課は出社制限の対象ではなく
良くも悪くもいつもと変わらない日々が続いていくだけであった。
必然的に今までに会わなかったはずの人に増々会うようになった気がする。
社長である。
偶然にしては会いすぎる。
きっと今までが会わなさすぎただけなのだが廊下や共用スペースで頻繁に会う。
社会の混乱が加わって、疲労が加速していったわたしの脳と肉体では
もはや社長に手を振って挨拶することが日常となりつつあった。
彼もそれに応えて手を振ってくれていたし、何の疑問も抱かなくなっていた。
ある日、またも社内の共有のスペースで出会うことがあった。
あまりに頻繁に出会うため、出社人数を制限しているはずなのに
何故彼とこうして何度も出会う機会が増えたのか率直に聞いてみたくなった。
「社長は毎日出社してはいないよね?」と聞くと
驚いた顔で「毎日来ているよ!毎日来なくちゃいけない人たちのためにも僕が来なくちゃ!」
とのことだった。
率先して休めよ!とさえ思っていた自分を恥じた。
そして、尊くね?と思った。
この頃には、欧州各国はロックダウンが通常の対応だったので
本音を言えば、個人的にはいっそ日本もロックダウンしてほしかった。
「ヨーロッパは大変そうですね。でも日本の方針は悪くなさそうですが…」と話題をふってみたが
暗い表情になって「…今のところはね!」と言われてしまった。
今思えば、彼はもちろん母国のことも考えてはいただろうけれど
やはりいつ状況が変わるかわからないこの国の政策に対してだって思うところはあったであろう。
誰もがみんな、先行きが見えなくて不安だった。
それでもどこか、淡々としているようにさえ見えたのは
出社する人のことを考えて、自身も出社していると回答したこの人の器の大きさを垣間見た。
どこにも楽しい話題などは転がっていなかったので、
何か月も前に、社長はね、実はこういう内容を社員に聞いてみたいと思っているみたいなんだよねと、
ふと、目の前にいる人物が誰だか知る前に聞いていたことを思い出したので
これはこうで使いやすいだとか、こういう使い方をされたりするとかえって業務が増えてしまっている
とか実務に対する率直な意見を述べてみた。
たちまち社長の瞳は輝きだし、天井を見つめながら言葉を選んだりしながら
「そうか、そうだったのか、教えてくれてありがとう。感謝するよ」と少しだけ会話が弾んだ。
自分を買いかぶるつもりは全くないのだが
社長が知りたかったことに関しては、多少の英語スキルと外国圏の文化について知っている必要があった。
また、それが日本のものとどのように異なり、日本人にとってどのような障害が発生するのかは
実際にどちらの文化も比較することができる人間でないとわからないものであった。
この話題について教えてくれた人は、どちらも比較ができる人ではあったけれども
実際のユーザーではなかったので、実務で使用している人の意見を社長が知りたがっていると
教えてくれたわけであった。
ただ、わたしは全く社長という人物のことを全く知らなかった。
だから、どういう人かはもちろん、何故知りたがっているのか検討もつかなかった。
そして、一般の社員も派遣社員も、個人の意見として社長と話す機会を持てるような環境にはなかったように思う。
それが普通なのか、段階を経て進める話なのかはわからない。
だけど、その時わたしが出来ることで後ろ向きでない話はそれしか思いつかなかったのだ。
翌日もやはり給湯室で丸くなってマグカップを洗っている社長を見かけた。
わたしは気さくに接し続けてくれる彼に対して最大限の敬意を払いたかったので
「Hi!ぐーてんたーく!」と思い切って声をかけた。
社長は目を見開いて「非常に発音がいいねえ!」と言ってくれた。
ドイツ語は、苦手だった。少しだけ勉強したこともあれば
外国の文化に触れる際に耳にする機会もあったが
どこか刺々しく耳障りで、聞いているだけで具合が悪くなる程度に苦手だったので
挨拶程度、挨拶も3つぐらいしか知らない。
そんなものググっておけよとも自分でも思うのであるが
生憎、残業をする生活当たり前になってしまうことが想定外だったということもあり、午後の挨拶をどう言うのかがわからなかった。
なので、少年のように目を輝かせる話し相手に
「こんばんはってドイツ語ではどうやって言うの?」とたずねた。
彼は背筋を伸ばして「そうだね、まずは、おはようがグーテンモルゲンだね。そして
12時を過ぎた頃からグーテンターク、そして午後になると…そうだな大体グーテンアーベンがこんばんは
といった感じになるかな」とゆっくり説明してくれた。
わたしは、時間にこだわりが強い人なのかなと思いながら「なるほど!グーテンアーベン!」と発した。
社長は驚いた顔をして「やはり発音がいいね。それに比べて僕の日本語は。
何年もここに住んでいて努力はしているがちっとも上達しない。」
結果的に悲しい顔をさせてしまった。そして居住年数の短さに驚いた。
「そんなに短ければ覚えられる言語ではないです、日本語は。難しい言語ですから心配しないでください」と伝えるも、「オハヨウゴザイマスとコンバンハぐらいしかうまく言えなくてね」と照れながら続けるので
コンニチハはどこへ行った?🤔と思いながらも
「本当に日本語は難しい言語です。文法も全く異なりますし、細かいニュアンスが難しいです。
わたしも最近は叔父とよく話していて、彼とは方言で話すので標準語がよくわからなくなります。
方言は標準語と全く異なるものもあるので、最近では英語を使う方が楽に感じる程です。」
まあ、精一杯のフォローというやつだった。真実だけど、真実だからこそ説得力は増す。
「そんなに違うものなのかい?ドイツ語にも方言はあるけれど、全くわからないということはないな、興味深いね」
「わたしの叔父が住んでいる場所は、完全に異なるものが多いです。わたしは地元も東京ではないので
色んな表現が混ざってしまう。その点英語はシンプルです。現在の業務では使ってないのですが。」
そういった何気ない会話が続いたあと
彼はまた、天井を見上げて少し考え「でも僕と話すときに英語を使うね!」と嬉しそうな顔で言いだしたので
どういう話の流れでそうなった、と思いながらも「そうですね✨」と回答するに留めた。
その後一ヵ月程は、社長に会う機会がなかった。
その間に非常事態宣言が発令され、また緩やかに解除されていった。
結論から言えば、勤務条件は何の変化もなかった。
相変わらず出社して、少しだけ減ったかもしれない業務量をこなしていた。
その頃は、春先のスギ花粉が落ち着きを見せたところでやってくる
ヒノキ花粉には随分と困らされた。
年々飛散量が増えるヒノキ花粉とは、昔から相性がとても悪く、花粉が付着した肌は荒れ
喉に炎症を起こし、ピーク時には最低一週間の程の微熱を伴う。
それが、わたしにとっては毎年当たり前のことであったが
今年に限ってはこれが当たり前だと申告することも
無理をして出社することも賢明な判断であるとは言えなかった。
結果的に一週間程出社を控えた。平熱に下がるまでは出社を控えた方がいいという
医師の助言に基づくものであった。
家に居られたからとはいえ、毎日毎日寝て過ごした。
花粉がなくならないのだから熱も下がらない。
ただただ怠くて出来ることが何もないので、例年通りひたすら眠ることしか出来なかった。
困ったのは平熱に下がって出社した時だった。
多くの人に声をかけていただいて、無理はよくないから休めてよかったわよ等と言っていただいた。
本当によくしてくださる人が多かったし、感謝してもしきれないと思うこともあった。
ただ、どういった経緯でそうなっていたのかはわからなかったが
わたしが欠勤している間の業務は保留になっているか、中途半端に処理されたものが散らばって保管されているかだった。
決して誰かがやってくれるだろうという考えでいたわけではない。
ただ、わたしでなくとも処理できる内容であるとは考えていた。
欠勤したことは申し訳なく思っていたが、体調不良のまま出勤することは
今年に限って言えば迷惑行為だと考えていた。
例年であれば、例年通り、微熱があって咳も出る状態で出社していたであろう。
個人の勝手な意見ではあるが、理論的には在宅勤務をしている方に頼むことだって
できなくもない業務が含まれていた。
それを試してみたか、試そうとしてみたかは今となってはわからない。
山積みになった書類を渡され、データ処理を進めた。
何が起きているのかはもうよくわからなかったが、やれるだけのことをするしかなかった。
もし、わたしが花粉症に伴う体調不良ではなくて、感染症に罹っていたとしたらどうだったのだろう。
それはそうなってみないと対策のしようがなかったということだったのだろうか。
それが直接的な原因となったわけではなかったし
それ以前から恒常的には業務過多の状態であった。
定時に仕事が終わらないということは、それ相応の業務量になるように割り振りの調節ができていないということだと
個人的には思わざるを得なかった。
そういった生活スタイルが合う人もいるだろうし
残業代を得ることで生活が豊かになるという考え方もあるであろう。
でも長期的に考えるとわたしには合っていなかった。
そこまでの結論が出た時点で、この職場の、所属している課の方針とは合わないということは
明らかであった。
色々なことを考え、今後の方向性に悩んでいたある日、
業務上、上の人に指示を促すべきことがあったのだが、それがうまくできなかった。
気が付けば、日に日に責任は重くなってしまっていて
相談できる相手もおらず、言われたとおりに、だが期待に添えるように
「空気を読んで」柔軟に対応することが当たり前になってしまっていた。
たかがそれぐらいで、と考えることだって出来たし、それも仕事のうちだと考えることだって出来ただろう。
ただ、少なくとも当初はそういった契約ではなかったし
その時点で抱えていた業務以上の判断を行う権限はないと考えるに至っていた。
その日も、当たり前のようにお昼休憩を削って、当たり前のように残業をして退勤した。
いつか現状が改善されるのだろうかと漠然と考えながら、どこかわたしが間違っているのではないかと思った。
欠勤した事実は変えられないし、決してそうではなかったのに、多くの人に責められているような気持ちになって申し訳なく思っていた。
職場を出て岐路につこうとしたところ、背筋を伸ばすととても大きく見える社長が
両手いっぱいに日用品を抱えて、同じく岐路につこうとしていた。
いつも通りの笑顔。きっと知っている人には誰にでもするような挨拶。
わたしも挨拶を返して、すぐに立ち去ればよかったのだと思う。
でも次に口から出た言葉は「確かではないけれど、わたしはこの場から離れるかもしれない」という
言わなくてもよかった事実だった。
彼はいつもの驚いた顔をして持っていた荷物を勢いよく床に置いた。
そして「何故だか聞いてもいいかな」と困った顔で聞いてくれた。
わたしは決して人付き合いが得意な方ではない。自分ではそう思っている。
周りに気を配れる人や、スラスラと自分の意見を言える人が心底羨ましい。
時間が許せば、よく知っている人であれば、自分の意見を言うこともできるが、根本的には得意ではない。
きっとこの時も心のどこかでは、誰かがわたしの気持ちに気づいてくれたらいいのに、きっとそう思っていたのだと思う。
自分がうまく言えなかったはずなのに、誰もわたしのことを気にかけていないような気持ちになってしまっていた。
だから、きっと一般常識としては気軽に話したりするべきでなかった目の前の人物が
現状では唯一の理解者であるかもしれないことに気づいてしまった時、張り詰めていた気持ちが緩んでしまって
目から少しずつ涙が零れてきてしまった。
あふれ出る感情をこらえながら、どういったことに困っていたかを説明するも
彼はまたオロオロし始めてしまって「どうか考え直しておくれよ」と何度も言ってくれた。
そしてわたしの考えがここ数日でそのように変わったものではないことを理解した時も
「もし本当に居心地が悪く感じているのであれば、立ち去ることも仕方がないだろう。でもよく考えてほしい」
と続けてくれた。
少しだけ冷静に考えることができても、やはり心はすぐには追い付かなくて
「こんなことを話すことになってしまって、感情的になってしまってごめんなさい」と言うしかなかった。
それでも「いいんだよ、大丈夫だよ、大丈夫だ。」と繰り返し、「今日はもう家に帰って。リラックスするんだよ」
そう促してくれた。
帰り道も、泣けて泣けて仕方がなかった。
頑張れると言い聞かせて無理をし続けた結果、結局何もうまくできなかった挙句
良き理解者である社長にまで気を遣わせたのだ。
様々な感情が渦巻いて、零れ落ちる涙をどうすることもできなかった。
努めて心を無にすることも、終わりが見えないことに気づいていないふりをすることも
そこまでは苦ではなくなっていた。
それがあるから仕事があるのだし、お給料だって貰えている。
結局のところ、どこで折り合いをつけるかは自分次第だった。
ただ、わたし一人が抱えるべきではない問題がいくつか生じていたし
泣きながら話さなければならない程、問題を抱えるべきではないと感じていた。
少しずつではあったが、周りも具体的に相談してはいた。
どこかでは、踏ん切りがつかないだけだとわかっていたけれど
全く期待していないわけではなかったのだ。
この頃には、ちょっとした合間に声をかけてくれる人が増えた。
どちらかというと好奇心によるものではあったけれど
気にかけてもらえること自体が十分に嬉しかった。
自分からはいい話題なんて振る自信がなかったし、そういった余裕もあまりなかった。
あ、英語は少ししか喋れないです、とか、話の内容は雑談ですかね。とかを答えた。
なんだか知らない間に目立っていたようだった。
わたしは、あまり世界の仕組みがわかっていなかったのだ。
相手が誰であろうとも、接し方は平等であるべきだと考えている。綺麗な綺麗な理想論だ。
それはわたしが誰からも平等に接してほしいからだという願望も含まれている。女子だからだとか、身体が大きくないからとか、そういう理由で判断をしてほしくないからだ。そういう見た目のせいで高圧的な態度で接してくる人はそこらじゅうにいた。
そして、共通言語である英語ぐらいは話せないと困ることがあるだろうとずっと思って生きてきた。
他の言語の習得を切り捨ててでも、なんとかなることが多い選択をすべきだ。
言葉が通じないということは、どうしようもなく哀しい。
身振り手振りでなんとか通じたとしても
結局は相手の本意を知ることは出来ない。
自分が傷つくこともあれば、相手も傷つけることになる。
そういう、誰かの寂しさだとか、悲しみだとかを何もわからないふりができるような器用さは、どうしても持ち合わせていなかった。
そういった考えを基に生きてきたので、わたしの中では当たり前になっていたことが世間の一般のものと離れていってしまっていることに気づくことができなかった。
多くの人にとっては、母国語以外は重要ではないという認識が欠落していた。
えっ、でもどうすんの、田んぼ道を自転車で駆け抜ける時
もしそこにジョニー・デップが通りかかったらどう対応するの。
昔から想像力だけで生きてきたような気がする。
選ぶことが出来たなら、他の能力がよかった。
毎回毎回会う度に暗い顔をしていた社長もいつの間にか
わたしを見つけると顔をほころばせてくれるようになっていたのだが
心を無にすることが多くなっていたこともあり
わたしに対する気遣いから明るく振る舞ってくれていたのかもしれないということを察することは出来なくなっていた。
正直言うと、余裕があっても察することが出来たかどうかはわからないのだが
そういった優しさに気づくことが出来なくなっていたのは痛恨の極みである。
「ご機嫌如何かな?」と聞かれても
ここ数ヵ月元気だったことはないよ、どこかが常に不調だ、でも疲れているとは少し違う。
それに、tiredは眠たいの意味もある。実写版くまのプーさんで習得した。
そういったことが早歩きで頭の中を駆け巡り、でも結局考えるのをやめて
「Exhausted」と答えた。主語さえないではないか。
いつも通りのオロオロとした顔。「忙しい時間だもんね」と優しく言ってくれたのに
「時間の配分がタイトすぎる」と死んだ顔で続けてしまった。
「僕も忙しいよ~」と困った顔で続けてくれたのに
「なんで?」
なんでそんなこと聞いちまったんだろうなあ。友達かよ。
社長は少し俯いて「次から次へと電話がかかってきていてね、みんなを待たせてるんだ」と悲しそうに言った。
なんでここまで正気に戻らなかったのだろう。なんでそんな悲しいことを言わせてしまったのだろう。
正直さに勝るものはない。
少なくとも彼との関係性では、本音を言うことで成り立ってきたものであった。
思ったことをそのまま言うだけで、お互いのためになるのであれば、
そうしない理由など他にはなかった。
そうすることしか出来なかったとも言えるのだけれども。
「みんなラッキーだね、社長と話せる人たちは、社長の声はとても優しいから」
深い緑色。聡明で物事を熟考する人に多い声。それに加えた穏やかさ。
ドイツ語はもともと、緑がかってはいるけれど言語そのものには穏やかさはあまり感じられない。
社長の顔は晴れやかになり、忙しなく働く人たちを見渡すなどして
「全てのものごとがうまくいくといいなあ」と言った。
そうなるといいですね、とは言ったけれど、そううまくはいかないだろうなと思った。
最終的に全てのものごとがうまくいったかどうかはさておき、
その後、全ての項目において折り合いはつかないという状況になった。
わたしと社長の出会いを知っている友人は、それを
シーズン打ち切りと表現した。
確かに、まるで海外ドラマのような日々であった。
こういったやりとりを許してくれた社長の器の大きさに感謝するばかりである。
残された時間は2か月程であった。
その間、社長は、ものすごいスピードで廊下をダッシュしていたのに急ブレーキをかけて挨拶をしてきたり、帰り際に手をふりあったりして
どうも居たたまれなかった。
もし、ものごとが確定したなら、話しに来るかメールをしてほしいと言われていた。
わたしが社長の前で泣いてしまってから、何の変化もなかったわけではなかった。
ただ、それが現場レベルで改善するようになるには時間がかかりそうだということは確実であった。
十分に周知されていたか、または周りがそれに気づく余裕があったかと問われれば、なかったと言うしかないであろう。
いつだったか、どこかの会話で
「周りの人には言ってみた?」と聞かれたことがあった。
色々な愚痴ばかりを話していて迷惑だったのかな、と我にかえった。
ただただ申し訳なく思った。
手順としては直属の上司やその上に掛け合うことが筋が通っていただろう。それはその時にだってわかっていたことであった。
人の話をよく聞く人は、相手が話している間は決して目を逸らさない。
話し上手な人は聞き上手でもあるのだ。
わたしのこの問題がどういったものであるか具体的に把握できるまでは彼は問いかけることを諦めなかったであろう。だからやはり正直に答えるほかはなかった。
「言っていないわけではないです。相談していないわけでもない。
ただ、彼らに理解させることが、とても難しい。」
言っている自分でも何を言ってるんだろうな、と思った。声が消え入りそうだった。
社長は目を逸らして呆れたような顔をしながら「そうなんだよね」と言って笑っただけだった。
たったそれだけのことだった。
たったそれだけのことが、わたしを孤独な気持ちから救ってくれたのだった。
それと同時に、きっとそんなことは何回も何回もあって
この異国の土地ではどれだけの苦労があったのだろうか、と思った。
わたしがこの場から離れることが確定したということは、
本当になかなか言うことができなくて、
既にその事実を知っている周りの人たちもそれまで以上に気を遣い続けてくれたこともあり
結局メールで知らせることとなった。
社長のその後の反応や対応は、シーズンファイナルと呼ぶに相応しい対応であった。
まだほんの数週間前の出来事だ。
振り返るには少し早すぎると思うので、また機会があれば残しておきたく思う。
人と人との関係性を築くことが難しいと思う人間はたくさんいる。
自分では苦手だと言っても、案外うまくいっている人もいる。
似通ったものがあっても、同じ悩みというものは1つもないであろう。
わたしも、あまり人付き合いが得意ではないし
積極的に他人と関わろうとはしていないと思っている。
1つだけ心に決めていることがある。
自分が、見なかったことにできないような出来事があれば
それがどんなに小さな違和感であっても見逃さないようにすること。
すぐに動けなくても、よく観察してみること。
糧に出来なくとも、なかったことにはしないこと。
可能であれば、その違和感の欠片を掴まなければいけない。
そして自分が相手にすることが出来る最大限の方法を考えて、相手に敬意を示すべきだ。
そうすれば、毎回とは言えなくともそれが返ってくることもある。
わたしの人生は、そういうものの連続でなんとか成り立っているようなものだ。
映画の見過ぎだよ、とただ笑っていただけたなら、そんな幸せなことはないなと思う。