反哲学入門 木田元

感想:ハイデガーの謎言秘教哲学を信頼し、ポストモダン思想のなかで生きれはこういった哲学思想が生まれるのもやむなし。「なる」と「つくる」の話によって一見、反哲学の正当性を感じてしまうが、結局木田元の哲学はシニシズムでありイロニーでしかない。
反哲学は一体どのように優れた原理といえるのか? 

従来の哲学は不自然な考え方といっているだけだ。ではどうして不自然ではいけないのか、自然的誤謬ではないかと問いかけるとニーチェがやってくる寸法。しかしニーチェを持ってきても現代の多様性、信念対立、そして従来のの哲学の謎、あるいは真善美を解き明かすかには十全ではない。反哲学とやらは普遍性の原理を創出する哲学の言語ゲームから白旗をあげてしまったものだろう。

私的満足度:★★★(3.5)

抜粋もコメント
・哲学は社会生活でなんの役にも立たないし、子供に哲学なんて教える必要がなく、むしろ関係のない健康な人生を歩んでほしい。しかし抜け出せなく取り憑かれてしまう人がいるので、楽に往生させるため木田元は入門書を書いている。(21-22)
(やれやれ、ハイデガーとポストモダンの時代に生きて毒されればそうなのはやむなし、イロニー態度で往生しろよ)
・昔、オイゲン・ヘリゲルという新カント派の先生がいて、カントの『純粋哲学批判』を72回読んだけど分からないから今73回読んでる、という話を聞いた木田元の父親のエピソード。(36)(ばかだろ…という感想しか浮かばない、一般市民はそんな時間はない。原理をわかりやすく言わなければ哲学はスコラ哲学みたいになってしまう。批評の制度が生きないのでしぬ)

・「なる」の動詞は、世界に内在する神秘的な霊力の作用で具現したパターンの神話。人間社会の外のなにかが起源だと考えると「主体への問い」と「目的意識性」は強くは現れない。(55)←西欧の哲学と比較してる。
・日本はどうも「なる」という発想に支配されがちな国、と本居宣長は提起した。(55)

・プラトン世界漫遊旅行の帰途、独裁者ディオニュシス一世の宮廷に滞在するなか、プラトンは毎日酒池肉林という乱れたシュラクサイ宮廷を見かねて、ディオニュシオス一世にお説教。捕らえら奴隷として売られる(91)(←いくつかの入門書で触れられるプラトンのこれ、ようやくわかった感じだ)

・ドストエフスキーは(19世紀の人)万博会場の水晶宮を見て、科学と技術がすべてを決定する未来社会をみて危機感を抱く。新しい芸術作品など芽生えてくる余地がそこにはないという予感は、ボードレールなどの世紀末芸術に共通する認識だった。(209-210)(物理学主義的一元論は無機的なんだろうな、そこには温度がないので拒絶したくなるのかもしれない)

・ドイツ語の「意志」は、決意する力ではなく、生命衝動に近い。弱肉強食の世界でただ生きようとする、どこにいくかわからない無方向なもの。ドイツ思想にはこれが知的能力よりも根源的だと見る伝統がある。(214)
(ヘーゲル先生のお話読むとき気をつけてみよう)

・ニーチェは明るいアポロン的精神の底に、厭世的なディオニュソス的な情念があると主張。ギリシア人は暗いペシミズムに耐えるため、ディオニュソスの夢に現れる、アポロンに代表される美しい神々を創造し、その演技やセリフを悲劇にくわえた、とニーチェは考えた。(215)

・たしかに古代ギリシアにはオリュンポスの神々を祭る男の宗教のほかに、深夜女たちが森に集い火を焚き、すっぽんぽんで酒を飲み、生きた獣の肉をくらいつき駆け回る秘密の宗教──ディオニュソスの神を祭る密儀があった。(215)

・古代ギリシアの『自然(フュシス)』とは、存在するものすべて、つまり万物と同義だった。存在全体の本性をそこでは指していた。この名詞は「芽生える・花開く・生成する」という意味の動詞フュエスタイから派生したもの。つまり彼らは万物の存在を、生きて生成することだとみていた。と木田元は語る。

・ニーチェから言わせればプラトンのイデアは、生を確保し高揚させるものとして設定されたものだ。しかし、それが事物のうちに投影され、超感性的存在・価値として信じてしまったことが(努力してもありもしない目標に到達できないと気づいた時)ニヒリズムに陥る。(224-225)(プラトンの見方は正しいか疑問だが、すくなくとも本体論という意味でなら納得する。すばひびの新聞記者も言ってたっけ、「ありもしないものを追い求めるからこそ絶望するんだ」と。)

・ニーチェの考えでは、生の高揚のための価値定立こそが芸術であり、それによってもたらされる価値が美。
「芸術は真理にも増していっそう価値が高い。」「われわれは真理によってだめになってしまわないために芸術を持っているのだ。」(238)(欲望論では、美は、芸術は必要でない人にとって不必要であるとして、価値の定立に美を掲げない。そういう意味ではニーチェとは反対だ。ではなにをもってして人の善を定立し、構築していくのだろうか?やはり多様な善をまずは肯定して、つまりあなたがそうだと思う善を追求しなさいとなり、それをいかに調停するかに力点が置かれるのだろうか。少なくとも美は実存にとってかけがえのないものだとわたしは感じるので自分の生には組み込みたいぜ)

・木田元はニーチェの最後期の思想のつながりがわからないといい、信じてるハイデガーの意見をかりる。245(だよねー)
・ハイデガーからすれば、ニーチェは存在=生成の概念を復権し、そこからプラトン以降の西洋文化を批判しようとしたもののうまく出来なかった。プラトンらの存在=現前性(ウーシア)の束縛を脱し切れかったという評価を与えてる。(246-247)(えー? って感じだ。ニーチェは欲望相関的、力の意志によって存在が生まれることを言ってるわけだが?。)

・ドイツに反ユダヤ主義が台頭していく理由、第一次大戦後、同化ユダヤ人が欧米で金融や貿易の国際的なネットワークを築き上げたため、インフレと不況に苦しむ(零細で家庭経営企業ばかりの)ドイツ国内資本は圧迫を受けます。そのうえ東方から難民が流入してくるので次第に怨嗟の声が高まっていた。とのこと。(253)

・ハイデガーはいやらしい。私利私欲のため行う「カトリック神学からプロテスタント神学へ」「神学から形而上学へ」といった転進。
(このいやらしさ変わり身の早さが、謎言秘教的な哲学の所以じゃないの?)

276 ユダヤ人であった先生のフッサールが一時的に大学教授リストから名前を削られ、大学の施設、図書も利用できない生活を強いられていたのに手を伸ばさず、葬儀にも出ないハイデガー。さらに家族ぐるみで親しくしていた友人をナチスに密告。木田元は許す気になれない卑劣な言動という。(ハイデガーよあんたってやつは。。こゆとき著者の人柄と作品を区別する木田元はいいね、私もその姿勢には同感だがハイデガーのいやらしさを何度も強調するのにはわけがあるのだなと理解)

280 ハイデガー『それは何であるかー哲学とは?』で、哲学フィロソフィアという言葉は、ギリシアにしか生まれなかったし、だから哲学こそがギリシア精神のあり方わ規定するものだ。さらにヨーロッパの根本動向をも規定した。したがって西洋哲学、ヨーロッパ哲学と言い方は同語反復でしかない、と語った。(サピエンス全史の科学革命と連動する考え方たね。)

287 ハイデガーは自分の思索を哲学とよばず、「存在の回想」と呼んでる。(中動態の世界にでてきた、意志とは回想しないこと、過去を忘却することといっていたのと繋がるんだろうか?)

290 木田元曰く、ハイデガーの存在論が、人よりも構造が先だと主張し、反ヒューマニズムを標榜としたデリダやラカン、ドゥルーズに影響を与えたとのこと。(やれやれ…まったく)

295-
太古の人々は自然はそう「なっている」もので、「つくられた」ものとは思わなかった。(ギリシア神話、日本神話を見よ)
しかし「つくられた」ものとして考える人が登場し、(木田はプラトンのイデア説にこれを見て)世界はその理想の写しであるという思想の必然的な流れを見る。西洋哲学は不自然、自然は人間に利用されるべきと思ってるからを

参考読書:『わたしの哲学入門』木田元 新書館

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?