Hello everyone, this is...
はじめに
ある人が、私にこう言った。
「あなたが頼ってくれるとき、私は嬉しい」
私は、確かに、あまり人に頼るというタイプではない。頼られる、という方がしっくりくるし、頼ることを意識すると、何を?どうやって?私が求めているものは何?まずそこから困ってしまう。長女だから、と言われたらそうかもしれないし、そうではないという気もする。性格とか、経験とか、理由はきっと色々ある。
頼らないことが、いや、頼るべき時、頼ってもいい時に頼らないことが、かえって想定していたものとは逆の展開になることがあるというのは、やっと最近わかったことだ。
だから、ちょっと、頑張ってみることにした。今までやったことがないことを、中でもすべきじゃないと思っていたことを、行動に移すというのはとても気力が要る事だ。
私が、もう少し早く、人を信じ頼ることを、心を打ち明けることを、自分の心に向き合うことを、その意味と強さを、知っていたなら、こんなにも惨めにもがくこともなかっただろうか。もっと、腹を割って、人と、話をすることができていたのだろうか。
しかし、これは、後悔ではない。ズタボロになった自分の心と、それを隠して一緒に過ごした日々を、残念に思うものではない。だって、それでも笑ったときはあって、楽しかった瞬間はあって、それでも、こうして生きてきたのだから。
だから、これは、これからに向けての、支度だ。傷を知り、癒し、できれば同じ傷を負わぬよう、自分の内を知り、自分の外を学び、その付き合い方を考え、準備をするのだ。
自分が私の手に負えなくて、世界が私には難しすぎて、心に深く染み込んでしまった痛みに、夜部屋の隅で泣く時、私は確かにひとりぼっちだったのだけれど、決壊したダムのごとく、どれだけ涙が流れても、そのダムが枯れることは決してなかった。そうしていつしか泣き疲れて、いつの間にか登っていた朝日に眉間の皺を寄せるのだ。
それでも干からびてしまうこともなく、今もこうして生きていて、その道のりを振り返る余裕ができた時、やっと、私のそのダムに水を注ぎ続けてくれていた人の手があることに気づいた。それは、あの言葉を私にくれたその人であり、私が生きていることすら知らない遠くの人であり、私が愛する人であり、私が尊敬する人であり、私が思い出せない人であり、その手を見上げようとすると太陽が眩しくて顔が見えない。
これは、私が、ひとり部屋の隅で泣く時、欲しかった言葉だ。私はあなたの涙を止めることはできないかもしれないけれど、これらが、そのかけらが、誰かの心のダムにひと匙でも水を注ぐことができたら、と思う。
そして、あなたも私も、初めての人生という道を進む者同士、たとえ互いの名前を顔を知らずとも、私は孤りではないと思えたら、また部屋の隅で泣く時がきても、上る朝日を今までより少し、笑って迎えられる気がする。
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