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《大学入学共通テスト倫理》のための西田幾多郎

大学入学共通テストの倫理科目のために歴史的偉人・宗教家・学者を一人ずつ簡単にまとめています。西田幾多郎(1870~1945)。キーワード:「西田哲学」「純粋経験」「主客合一」「絶対無」「絶対矛盾的自己同一」「場所の論理」主著『善の研究』『自覚における直観と反省』『無の自覚的規定』

これが西田幾多郎

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「西田哲学」といわれる独自の哲学をひらいた哲学者です。禅の修行をしながら『善の研究』を書いたり、東洋思想と西洋哲学を融合させた存在として語られます。

📝西田幾多郎と言えば、何と言っても『善の研究』です!

『善の研究』は、日本の哲学者である西田幾多郎が著した哲学書。1911年(明治44年)刊。西田哲学の最初期のもので、日本初の独創的な哲学体系。(略) イマヌエル・カントの『純粋理性批判』と並び、戦前の日本では学生の必読書とされた。(フリー百科事典「ウィキペディア」、善の研究のページから引用)

こんな感じで哲学書として大絶賛です。戦後出版された岩波文庫もミリオン・セラーなので、戦前戦後の代表的な哲学書の1つだと言えます。

📝早速、この『善の研究』を覗いてみましょう!

◆まず、具体的な瞬間の経験(純粋経験)の分析から開始します!

純粋経験はいかに複雑であっても、その瞬間においては、いつも単純なる一事実である。(略)注意の推移、時間の長短こそあれ、その直接にして主客合一の点においては少しの差別もないのである。(『善の研究』(西田幾多郎著、岩波文庫)から引用)

これが西田幾多郎の「純粋経験」。対象と知覚とがぴったり一致している状態(「主客合一」)であると述べています。例を挙げると、花(客体)が咲いていることと私(主体)が花を見ていることは切り離せない、合一の経験となります。言ってみれば当たり前の経験のリアルを、西田幾多郎は哲学上の核として扱っていきます。

◆次に、純粋経験が「他」と関係する意識のリアルを指摘します!

他に関係なくただそれだけとして見た時には、何らの意味を持たない単に純粋経験の事実である。これに反し事実の意識なる或る知覚も、意識体系の上に他と関係を有する点より見れば意味を有(も)って居る(『善の研究』(西田幾多郎著、岩波文庫)から引用、ただしパーレーンでふりがなを挿入する改変を施した)

ある経験がそれと意識されることは、他の経験と比較されており、「あるもの」「他のもの」が意識の中で体系化していることを指摘している箇所です。人間的意識としては通常の事柄です。しかし、「主客合一」のリアルからすれば、現実は先後もパースもなにもないカオスでもおかしくない。にもかかわらず、現実の意識がカオスでないのにはナニカ秘密があるはず。ここで「体系」なるものの自明でないナニカにピントが当てられています。

◆体系を持つ意識の直観に、西田幾多郎は「超越」を見いだします!

知的直観といえば主観的作用の様に聞えるのであるが、その実は主客を超越した状態である。主客の対立はむしろこの統一に由(よ)りて成立するといってよい(『善の研究』(西田幾多郎著、岩波文庫)から引用、ただしパーレーンで読みを付した)

これが西田幾多郎の「直観」。意識の直観は全てを「超越した状態」から生まれていて、それがあるから「主客合一」の中に「主客の対立」や分別を生み出すことができると述べています。

◆意識の直観の「超越」はそのまま個の秘めた可能性となりえます!

意識の統一作用は時間の支配を受けるのではなく、かえって時間はこの統一作用に由(よ)って成立するのである。意識の根底には時間の外に超越せる不変的或る者があるといわねばならぬことになる。(『善の研究』(西田幾多郎著、岩波文庫)から引用、ただしパーレーンで読みを付した)

私たちのリアルな意識が、「超越せる不変的或る者」に基づいていると言っています。わくわくする展開です。

◆西田幾多郎は、この「或る者」で自由・愛・善・神を解明します!

我々の精神には精神活動の法則がある。精神がこの己自身の法則に従うて働いた時が真に自由であるのである。(『善の研究』(西田幾多郎著、岩波文庫)から引用、ただしルビは略した)

これが『善の研究』の「自由」。法則としての「超越せる不変的或る者」に近づくことに、真の自由があると述べています。

我々人間には先天的に愛他の本能がある。これあるが故に、他を愛するということは我々に無限の満足を与うるのである。(『善の研究』(西田幾多郎著、岩波文庫)から引用)

これが『善の研究』の「愛」。「超越せる不変的或る者」が奥底にある以上、自己愛的なレベルに人間はいないという話です。ところで、片思い中に読んだらキュンとくるフレーズだと思います。

善とは一言にていえば人格の実現である。(『善の研究』(西田幾多郎著、岩波文庫)から引用)

これが『善の研究』の「善」。上記のような「超越せる不変的或る者」という真のあり方に気づき、それを実現させていくところに「善」があるとしています。自発的であり、同時に愛他的であることが両立した素敵な「善」の観念です。

我々が神を敬し神を愛するのは神と同一の根底を有するが故でなければならぬ(『善の研究』(西田幾多郎著、岩波文庫)から引用)

これが『善の研究』の「神」。西田幾多郎は『善の研究』ではっきりとそう言ったわけではないんですが、「超越せる不変的或る者」を「人格の実現」によって実現させることで、人間が神域に立てることを含意したフレーズです。

📝『善の研究』以後の著作を駆け足で見ていきましょう!

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以後の著作は、『善の研究』で開いたものをリアルにつかみ直した営みと言えます。西田幾多郎を語る上で欠かせない「絶対無」や「絶対矛盾的自己同一」なども登場してきます。そんな迫力のある造語たちもチェックしていきましょう!

直観というものは、主客の未だ分れない、知るものと知られるものと一つである、現実その儘(まま)な、不断進行の意識である。反省というのは、この進行の外に立って、翻って之(これ)を見た意識である。(『西田幾多郎全集 第二巻』(安倍能成・天野貞祐・和辻哲郎・山内得立・務台理作・高坂正顕・下村寅太郎編、岩波書店)から引用、ただし現代仮名づかいに改変し、パーレーンで読みを付した)

これは『自覚における直観と反省』から。「反省」という契機の中に「外に立つ」超越性を具体的に読み直そうとしています。なお、本書は直観と反省のプロセスの中に、(超越性の)自覚と絶対自由意志があると説いた書物です。

精神的なるものに於(おい)ては、働くものと働かれるものとが一つであるのみならず、働く場所というのもそれと一つであると考えることができる。(『西田幾多郎全集 第四巻』(安倍能成・天野貞祐・和辻哲郎・山内得立・務台理作・高坂正顕・下村寅太郎編、岩波書店)から引用、ただし現代仮名づかいに改変し、パーレーンで読みを付した)

これが西田幾多郎の「場所の論理」。これは『働くものから見るものへ』から。精神の超越性の出現するプロセスを具体的に考察することで、「場所(精神の運動の外部でありそれの支持となるもの)」が不可欠だという発想が生まれています。この「場所」観は以後の著作でどんどん深まっていき、「絶対無の場所」などと観じられていきます。

意識作用の根底には無にして見るものがなければならぬ、形なくして形あるものを見るものの自己限定として意識作用というものが考えられるのである。(『西田幾多郎全集 第六巻』(安倍能成・天野貞祐・和辻哲郎・山内得立・務台理作・高坂正顕・下村寅太郎編、岩波書店)から引用、ただし現代仮名づかいに改変した)

これが西田幾多郎の「絶対無」。これは『無の自覚的限定』から。「形あるものを見る意識作用のなかに、形のない『無』がその根底にある」と言っていますが、この「無」は『善の研究』の「超越せる不変的或る者」の言い換えと言ってよいでしょう。有限な個にとっては無限の超越性より「無(意識の届かぬもの)」の方がよりリアルな形容だと言えます。あと、この無の観じ方は東洋っぽいです。

現実の世界は何処までも多の一でなければならない、個物と個物との相互限定の世界でなければならない。故に私は現実の世界は絶対矛盾的自己同一というのである。(『西田幾多郎全集 第九巻』(安倍能成・天野貞祐・和辻哲郎・山内得立・務台理作・高坂正顕・下村寅太郎編、岩波書店)から引用、ただし現代仮名づかい、常用漢字に改変した)

これが西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」。これは『哲学論文集 第三』の「絶対矛盾的自己同一」から。すごい迫力の文章ですが、「個物」があるということと、「世界」があるということは補完的でありながら同時に対立的である。それを「現実の世界」の存在のありかたとみなして、西田幾多郎は「絶対矛盾の自己同一」と呼んでいます。一と多、個と全体、過去と未来、動と静など、「矛盾」のペアはこの後三次元的四次元的に拡張します。西田哲学の中で一番流行った言葉だと思います。

故に我々の自己は、自己矛盾的存在である。世界を自己に映すと共に、絶対の他に於(おい)て自己を有(も)つのである。(略)時の瞬間は永遠に消え行くものなると共に、永遠に生(うま)れるもの、即ち瞬間は永遠である。而(しこう)して絶対現在の世界は、周辺なき無限大の球として、到る所が中心となるのである。かかる世界は、必然の自由、自由の必然の世界である。(『西田幾多郎全集 第十一巻』(安倍能成・天野貞祐・和辻哲郎・山内得立・務台理作・高坂正顕・下村寅太郎編、岩波書店)から引用、ただし現代仮名づかい、常用漢字に改変し、パーレーンで読みを付した)

これは『哲学論文集 第七』の「場所的論理と宗教的世界観」から。「到る所が中心となる」に注目です。超越を具体的に言い換えた「無」と、超越の生じるプロセスの精査としての「場所」を記述しながら、西田幾多郎は『善の研究』で着想した、人間の一人一人が神域の絶対に立てるというアイディアを力強く語り直しました。田辺元や戸坂潤などの弟子筋からの批判や、第二次世界大戦あたりに軍部の「大東亜共栄圏」構想に「京都学派」の弟子たちとともに関わらせられたり、晩年は少し不遇な印象がありますが、自分の思考すべきだと感じるものをひたむきに考え、納得できるところまでたどりついた西田哲学は偉大です。

後は小ネタを!

西田幾多郎は学生時代をこう振り返った。「過去の思い出が我というものの存在を意味するならば、四高の思い出は私というものから除き去ることのできない私の大部分を占めている」。過去の回想にも「~ならば~である」式の哲学書の西田節が出ていてなんだかほほえましいです。「四高」とは金沢の旧制第四高等学校。前身が石川県立専門学校の「四高」では、世界に禅をひろめた仏教学者の鈴木大拙、武蔵高校校長の山本良吉、国文学者の藤岡作太郎などと親友となり、学者の道に進む上での恩師である数学者で教育者の北条時敬に教わっています。旧制高校的な友愛的な人間関係を育んでいるというより、初代の旧制高校的人物です。

哲学者西田幾多郎の主著『善の研究』。1950年から発売されている岩波文庫版は、110万部を超えるミリオンセラーである。『善の研究』は、「純粋経験の主客合一」という1つのアイディアから世界の意味をまるごとつかむという、哲学的思考の魅力を存分に味わわせてくれる書物だと思います!


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