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《大学入学共通テスト倫理》のためのジョン・デューイ

大学入学共通テストの倫理科目のために歴史的偉人・宗教家・哲学者を一人ずつ簡単にまとめています。ジョン・デューイ(1859~1952)。キーワード:「プラグマティズム」「道具主義」「創造的知性(実験的知性)」「問題解決学習」主著『民主主義と教育』『哲学の改造』『人間性と行為』『公衆とその諸問題』

これがデューイ

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ヒゲがトレードマークのアメリカ紳士です。「プラグマティズムを大成した」と紹介されるように、交流のあったウィリアム・ジェームズが開始したプラグマティズム哲学をひきつぎ、哲学、経済、社会構想、学校教育などなど多大な貢献をした存在です。そりゃ切手にもなるでしょう!

📝多方面の活躍のコアとなった、「経験」への認識が深いです!

実は、経験は、人間の関心事と全く機械的な物質的世界との区別を全く知らないのである。(デューイ著『民主主義と教育 (下)』(松野安男訳、岩波文庫)p139から引用)

これはデューイの『民主主義と教育』から。「経験」が人間的出来事+世界のリアルの融合と述べています。確かにそうだという感じですが、デューイの認識は一般常識をちょっと超えています。

物的なものと心的なものとの関係の問題は存在しない。顕著な性質と効果によって特徴づけられている特殊な経験的出来事がある。(J・デューイ『「デューイ=ミード著作集」 経験と自然』(河村望訳、人間の科学社)p261から引用、ただし「物的なものと」の「と」の傍点を略した)

これはデューイの『経験と自然』から。デューイの「経験」への認識は、物と心をコインの両面と捉える認識に立っています。これはオリジナリティーの高い世界観でしょう!

📝「経験」は習慣的固定から、創造的知性で豊かに変化します!

それ自体の中に最初に意識的に気づかれているものを遙かに超え出る意味を含むことこそが、経験の本性なのである。これらの関連すなわち意味を意識させると、経験の意味が増すのである。どんな経験でも、それが最初に現われたときにどんなにつまらないものであっても、それのいろいろな関連が気づかれて、その気づかれた関連の範囲が拡大することによって、際限なく豊かな意味をもつことができるのである。(デューイ著『民主主義と教育 (下)』(松野安男訳、岩波文庫)p41から引用)

こんな感じがデューイの「創造的知性」にあたるもの。経験の中には普通の意識以上のリアルが詰まっている。それを知性によって自覚することで、現実に実験を繰り返し、リアルを創造的に発展させることができる。こんなポジティヴな「経験」観です。『民主主義と教育』から。

📝この「経験」観は、ある哲学的常識をエラーと扱います!

最初の障害は、活動の方向を二つの対立する要素に、すなわち、しばしばそれぞれ内的なものと外的なもの、または、精神的なものと肉体的なものと呼ばれる二つの対立する要素に分裂させる道徳観が流布していることである。この分裂は、すでに何度も注目してきた。心と世界、精神と身体、目的と手段の二元論の帰結である(デューイ著『民主主義と教育 (下)』(松野安男訳、岩波文庫)p225から引用)

「経験」という一括した世界認識のデューイにとって、世の哲学的な二項対立は全て(二分化している点がすでに)かたよった観念となります。こんな立場の明快さがプラグマティズムの哲学者らしいと感じます。『民主主義と教育』から。

📝具体的な哲学者へのコメントも辛口です!!

約言すれば、イデアにしろ、本質にしろ、日常生活の諸対象が神格化されたもの、つまり、正に現実の経験が挫折した点において欲求を満たすために理想化的想像力によって作り直されたものにほかならないのではないか。(ジョン・デューウィ著『哲学の改造』(清水幾太郎・清水禮子訳、岩波文庫)p95から引用)

これはデューイの日本講演の記録である『哲学の改造』から。プラトンのイデア論と、アリストテレスの形相論とが、現実を恐れて理想を分化させて逃避したイタイもの扱いです。もっとも、デューイはプラトンもアリストテレスも世界をトータルに認識しようとした先人として敬意をもっていたよう。「約言(やくげん⇒要約)」。

ちょっとブレークして、

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サーフィンの画像を引用します。サーフィンという経験は人間の行為であると同時に、とうぜん波という自然現象です。デューイは、こんな感じで全ての経験を世界と人為の融合と捉えて動的で魅力的なリアルをつかんでいたと言えるでしょう!

📝デューイは、哲学を動的で不安定なリアルに向き合わせます!

精神的観念論も唯物論も共に、このような関係的、機能的区別を、何か固定された、絶対的なものとして扱う。一方の学説は、観念形態の枠組みのなかに構造を見いだし、他の学説は、それを物質のなかに見いだす。この二つの学説は、構造がある最上の実在性をもつと想定する点では、共に一致している。この想定は、不安定で、不完全なものよりも、安定したものを好む(J・デューイ『「デューイ=ミード著作集4 経験と自然』(河村望訳、人間の科学社)p87-88から引用)

観念論と唯物論という哲学の二大潮流をバッサリ切った箇所。やはり二分化して「安定した」認識を展開するのが弱点であるとしています。日本での連続講演を収めた『哲学の改造』でも同様の議論を歴史的に展開して面白いです。こちらは『経験と自然』から。

📝デューイにとって哲学は、リアルな経験を普遍性で支援する「道具」です!

哲学は、それ自身の普遍性を常に主張してきた。(略)この普遍性を(略)指導的仮説の形成と結びつけるときに、その主張を良いものにするだろう。この仮説は、それが現実の必要によって示唆されるとき、すでに得られた知識によって構成されるとき、また、この仮説が呼び起こす操作の結果によって検討されるときに成果がある(『「デューイ=ミード著作集5 確実性の探求』(河村望訳、人間の科学社)p326から引用)

これがデューイの「道具主義」。哲学はみずからの真理を誇るのでなく、具体的で不安定な経験を普遍化するための「現実の必要」の道具であるという立場です。「哲学」のコトバを呪力のあるものとせずあくまで「仮説」と扱う点も健康的でいい発想です。『確実性の探求』から。

📝デューイは社会を更新していく、民主主義的な教育を重んじました!

社会を改良する建設的な力としての教育の潜在的な効力を真に理解し、教育が、ただ子どもや青年の発達を意味するだけでなく、彼らがやがてその構成員となる未来の社会の発達をも意味する、ということを真に理解すること(デューイ著『民主主義と教育 (上)』(松野安男訳、岩波文庫)p131から引用)

デューイは教育を過去のしきたりを教えるものでなく、未来に新しい価値を創造するものと訴えました。そして、忘れてはいけないデューイの側面として、中国、トルコ、メキシコ、ソ連などを訪問した直後に教育改革が起きるという、改革の起爆剤的存在であることもつけくわえます。とくに中国現代史では外せません。これも『民主主義と教育』から。

📝最後ですが、デューイは問題解決学習という学習理論の祖です!

問題解決学習法とは、アメリカの教育学者のジョン・デューイの学習理論。学習を能動的なものと規定し、知識の暗記にみられる受動的なものを脱却し、自ら問題を発見し解決していく能力を身につけていくことに本質をもとめた。(略)それはどうしてだろう?と考え、その仮説が理にかなうかどうか、自分たちの足や頭、インタビューや実地調査をして確認していく。もし外れているなら、また新しい仮説として立ててみる。その悪戦苦闘を繰り返す、試行錯誤のプロセスの中に、学習の目的があるし、またその過程そのものが学習といってもいい、とデューイは考えた。(フリー百科事典「ウィキペディア」、問題解決学習のページから引用)

これがデューイの「問題解決学習」。具体的な経験と向きあって「問題解決」に取り組み、仮説を立てて検証していく実験・試行錯誤を経てリアルを更新していく。デューイの哲学の本質が、そのまま教育にも応用されていることが確認できます!

📝おまけで、デューイのトランザクションにも触れておきましょう!

個人ないし集団の間のトランザクションは、その間接的な諸結果――すなわち、それに直接従事する人々を越えて及ぼされる効果――が重要なものである時、ひとつの公衆を生み出すことになる。(略)そうした重要性を作り上げるにいたるいくつかの要因、すなわち、諸結果が空間的にせよ時間的にせよ広範囲に及ぶという特徴、(略)くり返されるという性質、(略)結果が取り返しのつかないことになる点などを指摘してきた。(ジョン・デューイ『公衆とその諸問題』(阿部齊訳、ちくま学芸文庫)p83-84から引用)

これがデューイのトランザクション(トランズアクションやトランスアクションの表記もあります)。トランザクションとは、リアルな行為が当事者(当事者間)だけでない第三者へ波及するヒロガリを持っており、それが同時に人々のツナガリを生むという視点です。デューイは、ヒトが自身の行為で「公衆」という集団を形成すると論じることで、国家や政治の中に、単なるイメージや制度でない生きた結合があるとしています。民主主義をより確かにリスタートさせようとする姿勢がまぶしいです。これは『公衆とその諸問題』から。

Our belief that future advance in knowledge about knowings requires dependability of communication is integrally connected with the transactional point of view and frame of reference we employ.
("KNOWING AND THE KNOWN" by John Dewey and Arthur F. Bentley/https://www.aier.org/sites/default/)

共著『知ることと知るところのもの』から。「私たちは、知ることについての知識の発展にはコミュニケーションの信頼性が必要であると信じている。そのことは、トランザクション的な観点、用いられる参照元の枠組みと一体となり結び付いている。」が試訳。知識を得るという個人的具体的経験にさえ「トランザクション」というヒロガリ/ツナガリが機能していることに触れている箇所です(今回の和訳は、英語が難しくて同僚に助けていただきました。文責は私ですが記して感謝です!)。ところで、これは蛇足ですが、デューイのトランザクション論はヘーゲルが『精神の現象学』冒頭で展開した「還帰」という反作用論の影響もあるかもしれません。

後は小ネタを!

プラグマティズムの哲学者ジョン・デューイ。日本語でまず使わない音をDeweyが含むために、翻訳者たちは明治時代から表記に苦心してきた。デュウェー・デユイ・ヂューイ・デュウイー・ヂュウヰーなどなど。デューイは日本で「キウイフルーツ」と同様の表記の揺れがあるでしょう。

実際的な意味を重んじたプラグマティズム。その哲学者の一人であるデューイは、哲学の非実際的な側面をこう批判した。「最悪の場合、哲学は精緻な用語のショー」(『哲学の改造』)になると。「プラグマティズム」とは19世紀末~20世紀アメリカ生まれの哲学のこと。「実用主義」と訳されるように、激動の世界の変化の中でそれぞれ「有用的である」ことを重んじた哲学者たちの思想です。デューイ自身はプラグマティズムの哲学者を積極的には名乗っていなかったようですが、ザ・プラグマティズムのウィリアム・ジェームズの思想を好意的に自作にとりこんでいます。仲間です。ということで、デューイはセンター倫理的にはまぎれもないプラグマティズムの哲学者と扱われます。


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