映画字幕の舞台裏はこんなに楽しい!-8-
吉田 泉 (仏文学者)
名作『かくも長き不在』
またお会いしましたね。あなたは映画が好きですか?
もう最終回となりました。
今回は名作中の名作『かくも長き不在』(1961年アンリ・コルピ監督フランス映画)の話をしたいと思います。脚本が当代きっての女流ベストセラー作家マルグリット・デュラスだと聞いて、私は緊張の面持ちで字幕翻訳の仕事に取りかかったことを覚えています。
あなたはあなたの最愛の人が急にいなくなり、十年以上たってからまた突然自分の前に表れたとしたら、どうしますか? しかもその人は過去の記憶をすべて失くしてしまっているのです。『かくも長き不在』はそういう映画です。
主張しない主張
しかもこの映画の最大の特徴は、主張というものを一切しないというところにあるのです。主張を一切しないで、かつこれほどの強烈な主張をする映画というものを、私は他に知りません。肝心なところは映画の中で展開する映像による描写のみに徹していて、セリフは稀です。
パリ郊外のピュトーでカフェを経営するテレーズは、最近毎朝自分のカフェの前を、歌を歌いながら通る一人の浮浪者に、ぼんやりとは気づいていました。ところがある日、間近に見たその男は、16年前にゲシュタポ(ドイツ秘密警察)に連行されてその後行方知れずになっていた、夫のアルベールにそっくりだったのです。瞬間彼女は立ちくらみに襲われます。
どうにかしてその男の素性を確かめたいと思ったテレーズは、カフェで使っていた女の子に頼んで巧みに彼をカフェに招待します。そこで彼は自分には過去の記憶が全くないことを明かし、それを物陰で聞いていた彼女は気絶してしまいます。しかし、それから彼女の努力が始まるのです。浮浪者の昔の記憶を何とか呼び覚まそうと、カフェに夕食に招いたり、音楽を聞いたり、ダンスをしたりします。彼の記憶は戻るのでしょうか? またなぜ彼の記憶は失われたのでしょうか?
字幕を入れてはいけない?
さきほど、脚本が女流ベストセラー作家マルグリット・デュラスだったと言いましたが、逆説的ながら、実はこの映画ほど字幕が時には映画にとって必要のないものだと感じさせられた映画はありませんでした。
とても印象に残っている第一例目を挙げます。テレーズが浮浪者をカフェに誘い入れるために、彼の好きなオペラをジュークボックス(この言葉も死語に近いですが)で大音量で外に流します。彼が近付いて来るとテレーズは無言で「どうぞ」と手招きします。この時、オペラの歌詞が始まったので、私は苦労して訳したイタリア語のオペラの歌詞字幕を映像に入れようとしました(実は私は字幕のタイミングも電気信号で入れていました)。すると担当ディレクター氏は「ここはアウト(字幕を入れない)だ!」と叫んだのです。
「はあ、なんで?」と思いましたが、あとになってみるとそれはディレクター氏のほうが正しいのです。つまりここでは誘っているテレーズの必死の表情のほうが字幕よりもずっと大事なのです。字幕を入れると画面上彼女の顔が見えにくくなる。なるほどね。字幕は考えてみれば常に画面を汚しているようなものです。ないにこしたことはないのです。それが実感として理解できたのは、この映画のおかげであり、またこのディレクター氏のおかげでした。
セリフのない名画
二例目は、浮浪者の頭の大きな傷痕です。カフェにディナーに誘い、ダンスをするテレーズはふと彼の後頭部に手をやります。そこには長く太い傷跡があるではありませんか! これこそナチスがやった人体実験の隠れもしない証拠なのです。それが壁にかかった鏡に映り、テレーズはそれを見ます。浮浪者も気づき鏡に振り返りますが彼には傷は見えるはずはありません。憎い演出ですね。しかし映画は何も言いません、映像のみです。つまり字幕はありません。テレーズが強く眼をつむるだけなのです。人体実験で脳に損傷をこうむった云々は何も語られていませんが、メッセージは饒舌に伝わってきます。浮浪者が記憶を失くしているのはこのためなのです。
「人体実験」という言葉も一回も出て来ません。しかもこれほど人体実験の惨禍を静かにしかし印象深く描いている作品もないと私は思います。
字幕は沈黙のシーンを生かせるか
三例目は、やはり映像のみによる描写です。終幕近くで、カフェ近隣の人たちから一斉に「アルベール」と後ろから呼びかけられた時、彼は立ち止り、そしておずおずと両手を挙げてしまうのです。ゲシュタポから受けた恐怖が彼には記憶喪失のあとでも残っているのです。
こんな時に字幕には何ができるか? せめてこの沈黙のシーンが最大限に生きるように、他のセリフのある場所で緊張感を作りだすことです。例えば上記の三例目では誰かが「君を呼んでいるんだ、アルベール」と言っているセリフを「とまれ、アルベール」と私は字幕をつけました。
もう一つの主題はやはり人間の記憶という問題でしょう。認知症が現代病となっている昨今、「記憶がなくなってもその人はその人であるということは、何を意味しているのか?」という問いかけを先取りしていたという意味でも『かくも長き不在』はやり名作中の名作と言えると思います。
字幕あっての映画 映画あっての字幕
最後になりましたが、この浮浪者はテレーズの夫アルベールだったのでしょうか、それとも赤の他人? みなさん、その答えをフランス映画に求めてはなりません。フランス映画はあくまでも現実主義なのですから。言えることは、すべては状況証拠であるということのみです。
いかがですか? 映画字幕は楽しい、と言いつつ、今回はセリフのないシーンの楽しみになってしまいました。でも、いいではありませんか、肝心なのは映画であって必ずしも字幕ではないのです。それを知った上で映画を楽しむことこそ、また字幕を楽しむ楽しみ方ではないでしょうか?
みなさん、またどこかでお目にかかり、映画のお話をしましょう。
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