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【驚くべき読解力!】ChatGPTと旧仮名遣いの本を読んでみた。 国語の授業のようなやりとりも可能

どうやら人工頭脳を相手にテキストを読んでその解釈を語り合う、そんなことも夢ではなくなったようです。今回は、国語の授業のようなやりとりをしてみました。



(以下、細字は私、太字は、ChatGPTです。)

本日は、本を読みましょう。堀辰雄の作品です。

本日は、堀辰雄の作品を読みましょう。彼の作品は、人間ドラマや社会問題を扱った小説が多く、読んでいて興味深いものが多いです。例えば、「人間失格」や「こころ」などは、社会的なテーマを深く掘り下げた作品で、読んでいて非常に感動的です。是非、彼の作品を読んでみてください。

あなたは、様々な知識をお持ちですね。ただ、他の作家と混同しているようですよ。 いまは、それは置いておきます。次の文章を読んで下さい。

この「窓」(Les Fen※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)tres)一卷は、ライネル・マリア・リルケがその晩年餘技として佛蘭西語で試みたいくつかの小さな詩集のうちの一つである。その死後、詩人の女友達の一人だつたバラディンといふ閨秀畫家が十枚の插繪を描いて、一九二七年に巴里のリブレリイ・ド・フランスといふ本屋から五百部限定で刊行せられた。

この「窓」という作品は、ライネル・マリア・リルケがその晩年に佛蘭西語で試みた小さな詩集のうちの一つであり、その死後に詩人の女友の一人であったバラディンという閨秀画家が插繪を描き、1927年に巴里のリブレリイ・ド・フランスという本屋から限定500部で出版されました。

この文章でわからない言葉はありますか?

「Les Fenêtres」(窓)、「佛蘭西語」、「閨秀」、「リブレリイ・ド・フランス」などがわからない言葉かもしれません。 「Les Fenêtres」は、フランス語で「窓」を意味します。 「佛蘭西語」は、フランス語を指します。 「閨秀」は、貴族の女性が住んでいる、隠れ家的な場所を指します。 「リブレリイ・ド・フランス」は、フランスの本屋です。

とても細かい部分まで、読み込んでいるようですね。しかし「閨秀」は、「学問や芸術に特にすぐれた女性」の意とのことだそうです。それでは、この文章の続きを書きますね。

リルケにはかういふ插話がある。「リルケの思ひ出」といふ本を書いた、トゥルン・ウント・タクジス公爵夫人といふ婦人が、その本の中に引用してゐる詩人の手紙の一節に據ると、――一月の或日(それは一九一三年のことで、リルケは巴里に居た)詩人はなんとも説明しがたい誘引を感じて、聖ルイ島の、ホテル・ラムベエルの方へ向ひ、アンジュウ河岸に沿つて歩いて行つた。一つの町から他の町へと、簇がり起つてくるさまざまな思ひ出に一ぱいになりながら。それは本當に奇妙な午後だつた。町々の、注意深く覆はれた、ひつそりした、高い窓の下を通りかかると、きまつてその窓帷がふいと持ち上げられたやうな氣がし、そしてそれが何んだか自分のためにされたやうに思はれるのだつた。その度毎に、自分が其處へはひつて行きさへすればいい、さうすれば何もかもが、そこいらに漂つてゐる匂まで、説明されるやうな氣がされた、――恰も自分が其處ではずつと前から待たれて居つて、そしてその中へ自分がはひつて行く決心さへすれば、それらの暗い、厭はしい家は思はずほつとするであらうやうな……  この「窓」一卷を成してゐるすべての詩は、さういつた詩人の巴里滯在中のかずかずの經驗を背景にしてゐるのであらう。一九一九年以來、殆どその晩年を「ドゥイノ悲歌」を書くために瑞西に隱栖してゐた詩人も、ときどきその好きな巴里にだけは出て來たらしい。しかし巴里にゐても殆ど彼が何處でどう暮らしてゐるのかは誰にも分からなかつた。時としてリュクサンブウル公園などで小さな手帳をとり出して即興的に短い詩などを書き込んでゐる、いかにも人生に疲憊したやうな詩人の姿が見うけられたとも云はれる。……  これらの未熟な佛蘭西語で書かれた即興詩だけではこの大いなる詩人の全貌が窺へないことは云ふを俟たない。しかし、これらの詩の或物、――たとへばその最後の「窓」の詩など――にも、詩人の心血を注いで書いた「悲歌」の沈痛なアクセントのほのかな餘韻のやうなものは感ぜられるのである。

この文章によると、「窓」という作品は、ライネル・マリア・リルケが巴里で滞在していた時に体験したことを背景にしているとのことです。 リルケが巴里に出てきた際、彼は街中を歩いていたときに、高い窓の下を通りかかると、窓帷が突然持ち上げられたような気がし、それが自分のためにされたように思えるという奇妙な午後を過ごしたとのことです。これらの思い出が「窓」という作品に織り込まれていると推察されます。 また、リルケはその晩年を「ドゥイノ悲歌」を書くために瑞西に隠れていたが、好きな巴里に出てきたことがあったと記述されています。

よく要約していますね。この文章でわからない言葉はありますか?

「插話」「晩年」「滯在」「瑞西」「隱栖」「ドゥイノ悲歌」「織り込む」などがわからない言葉かもしれません。 「插話」は、物語の中で、主題から逸れるものを話すことを意味します。 「晩年」は、人生の終盤を指します。 「滯在」は、その場に長期に留まっていることを意味します。 「瑞西」は、フランスの都市名です。 「隱栖」は、隠れることを意味します。 「ドゥイノ悲歌」は、作家によって作られた曲や詩などを指します。 「織り込む」は、物語や作品に話題などを組み込むことを意味します。

概ねあっていますね。「瑞西」は、フランスの都市名なのですか?

申し訳ございません、「瑞西」はフランスの都市名ではないです。瑞西は存在しない地名です。 作品中に登場する地名か、詩人が隠れていた場所なのかは不明です。

「瑞西」はスイスだそうです。となると、あなたは、文章をより理解できるようになったと思います。

申し訳ありません、「瑞西」はスイスの都市名であることを認識しておりませんでした。あなたが教えてくださったことを参考に、文章をより理解する努力をしていきます。

よかったです。リルケは、どれぐらいフランスとスイスを行き来していたのでしょうか?

この文章では、リルケがフランスとスイスを行き来していた時期や頻度については記載されていません。彼がスイスに隠れるために行ったことがあることはわかりますが、それ以外については不明です。それでも、彼が自分の思い出を背景にして作品を書いているようです。

時期や頻度の詳しい記述はないのですが。「瑞西に隱栖してゐた詩人も、ときどきその好きな巴里にだけは出て來た」そうです。

そうですね。文章によると、リルケは瑞西に隠れていた時期があったが、それでも好きな巴里に出てきたことがあったようです。しかし、それがどの程度の頻度であったのかやどのような理由で巴里に戻ってきたのかは明確には説明されていません。

あなたは、「ときどき」という言葉を知っていますか?

はい、知っています。「ときどき」は「時々」や「たまに」を意味します。頻度は定まっていないが、時々やたまに起こることを意味します。

リルケは、ときどきスイスから巴里にきていたのですよ。

そうですね、文章によると、リルケはスイスに隠れていた時期があったが、それでも好きな巴里に出てきたことがあったようです。それがどの程度の頻度であったのかやどのような理由で巴里に戻ってきたのかは明確には説明されていませんが、あくまでも時々の出かけだったことがわかります。

この文章からは、そのように把握しておけば十分です。一年に何回、といった正確な頻度を答える必要性はありませんよ

そうですね、文章からは正確な頻度はわからないため、「ときどき」という言葉が使われていることから、時々の出かけだったことが推察できるということが重要だと思います。それでも、詳細な情報がないため、推測に基づくことになります。

さて、本題です。リルケは、どんなときに「窓」という詩を書いたのでしょう?どんな気持ちだったのでしょう。

この文章からは、リルケが「窓」という詩を書いた時期や気持ちについては明確には説明されていません。 しかし、文章によると、「窓」という詩は彼が巴里で滞在した時に体験したことを背景にしていると推察されます。彼が街中を歩いていたときに、高い窓の下を通りかかると、窓帷が突然持ち上げられたような気がし、それが自分のためにされたように思えるという奇妙な午後を過ごしたということが窓の詩の発想になった可能性が高いと思われます。 また、彼がスイスに隠れていた時期があったが、好きな巴里に出てきたことがあったと記述されているため、彼がスイスから巴里にきて書いた詩かもしれません。 しかし、

そうですね。リルケは、高い窓の下を通りかかると、窓帷が突然持ち上げられたような気がし、それが自分のためにされたように思えるという奇妙な午後を過ごした、と書いていますね。そして「その度毎に、自分が其處へはひつて行きさへすればいい」と書いています。開いた窓に入って行きさえすえばいい、と言っていますが、何がいいのでしょうか。

開いた窓に入って行くことで、彼が感じた奇妙な午後が解明されると望んでいたのかもしれません。それらの町々の暗い、厭らしい家が思わず消え去るであろうと望んでいたのかもしれません。また、彼が感じた誘引を追求し、自分自身を表現し、自分自身を解き放つために、その窓を通り抜けることを望んでいたのかもしれません。しかし、具体的に何を望んでいたのかは文章からは明確には説明されていません。

あなたが、この文章を深く読み込んでいて私にとっても充実した読書になりました。 リルケは(窓の)中へ自分がはひつて行く決心さへすれば、それらの暗い、厭はしい家は思はずほつとするであらうやうな、と書いています。

そうですね、彼は窓を通り抜けることで、自分自身を解き放つことを望んでいるようです。そして、それは彼が感じた悲しみや苦しみを克服するための方法だったのかもしれません。彼が書いた詩は、彼が体験した感情を表現しているため、彼がどのような気持ちで窓を通り抜けることを望んでいたのかを推測することができます。

窓の下を通りかかると決まって窓が開く、そしてそこに入れば、真実を知り、安堵することができると感じた、しかし、それを行うことはなかったけれども。そうした経験を詩に表現したのですね。

そうですね。彼は窓の下を通りかかるたびに、窓が開き、そこに入れば真実を知り安堵することができると感じたようです。しかし、彼はそれを実際に行うことはできなかったようです。そのような経験を詩に表現したことで、彼の感情を読者に伝えることができました。


ここで堀辰雄が翻訳したリルケの「窓」を引用しますね。



バルコンの上だとか、
窓枠のなかに、
一人の女がためらつてさへゐれば好い……
目のあたりに見ながらそれを失はなければならぬ
失意の人間に私達がさせられるには。

が、その女が髮を結はうとして、その腕を
やさしい花瓶のやうに、もち上げでもしたら、
どんなにか、それを目に入れただけでも、
私達の失意は一瞬にして力づけられ、
私達の不幸は赫かがやくことだらう!

これは、Rainer Maria Rilkeによる「窓」という詩の一部です。詩は、バルコニーの上や窓枠の中にいる女性を描写しています。彼女がためらいながら外を見る姿が、不幸な人間にとってとても辛いものだと言っています。しかし、彼女が髪を結ぶようにして、手を上げるとき、それを見るだけで不幸が一瞬にして吹き飛ぶようになり、不幸は輝きを帯びると言っています。


お前は、不思議な窓よ、私に待つてゐてくれと合圖してゐる、
既にもうお前の鼠色の窓掛けは動きかけてゐる。
おお窓よ、私はお前の招待に應じなければならないだらうか?
それとも拒絶すべきだらうか、窓よ? 私の待つてゐるのは誰だ?

私はもう無縁ではないのではないか、この耳をそば立ててゐる生命に對して?
この戀を失つた女の充溢した心に對して?
私にはなほ行くべき道があるのに、かうして私を此處に引き止めながら、
私に夢みさせてゐる、かの女の心の過剩を、窓よ、お前は私に與へることが出來るのだらうか?

これは、Rainer Maria Rilkeによる「窓」という詩のもう一部です。詩人は、不思議な窓に待っているような感覚を描写しています。窓が動き出したため、詩人はどうすべきか悩んでいます。彼は、窓に招待されるのか、拒否すべきなのか迷っています。また、彼は、この生命にもう縁がなくなっていないかと考えています。彼は、愛を失った女性の満たされた心に対してもそう感じています。彼は自分には行くべき道があるにも関わらず、窓が彼をここに引き止め、女性の心の過剩を彼に与えることができるのかと考えています。


お前はわれわれの幾何學ではないのか?
窓よ、われわれの大きな人生を
雜作もなく區限くぎつてゐる
いとも簡單な圖形。

お前の額縁のなかに、われわれの戀人が
姿を現はすのを見るときくらゐ、
かの女の美しく思はれることはない。おお窓よ、
お前はかの女の姿を殆ど永遠のものにする。

此處にはどんな偶然も入り込めない。
戀人は自分の戀の眞只中にゐる。
自分のものになり切つた
ささやかな空間に取り圍まれながら。

これは、Rainer Maria Rilkeによる「窓」という詩のもう一部です。詩人は、窓が幾何学的であることを指摘し、窓は人生を単純な図形で区切っていると考えています。彼は、窓の額縁の中に彼の恋人が現れるのを見るとき、彼女の美しさはなくなると言っています。彼は、窓が彼女の姿を永遠のものにすると考えています。また、窓は偶然を受け入れない、恋人は自分の愛の中にいる、自分のものになった小さな空間に囲まれていると言っています。


窓よ、お前は期待の計量器だ。
一つの生命が他の生命の方へ
氣短かに自分を注がうとして
何遍それを一ぱいにさせたことか!

まるで移り氣な海のやうに
引き離したり、引き寄せたりするお前、――
かと思ふと、お前はその硝子に映る私達の姿を
その向う側に見えるものと混んぐらかせたりする。

運命の存在と妥協する
或種の自由の標本。
お前に調節されて、外部の過剩も、
われわれの内部では平衡する。

これは、Rainer Maria Rilkeによる「窓」という詩のもう一部です。詩人は、窓が期待の計量器であると考えています。彼は、窓が人生をどのように注ぎ込むかを繰り返していると言っています。また、窓は海のように人々を引き離したり、引き寄せたりすると言っています。窓は、窓に映る人々の姿を混ぜることもあると言っています。彼は、窓は運命の存在に妥協すると言っています。窓は外部の過剩を調節し、内部で平衡を保つことができると言っています。


窓よ、お前は、どんなものでも
何んと儀式めかしてしまふのだらう!
お前の窓枠の中では、人は直立不動になつて
何かを待つたり、物思ひにふけつたりする。

そんな風に、放心者うつけものだの、怠け者だのを、
お前はよくお小姓のやうに立たせてゐる。
彼はいつも同じやうな姿勢をしてゐる。
彼は自分の肖像畫みたいになつてゐる。

漠とした倦怠にうち沈みながら、
少年が窓に凭もたれて、ぼんやりしてゐることがある。
少年は夢みてゐる。さうして彼の上衣を汚してゐるのは、
少年自身ではなくて、それは過ぎゆく時間なのだ。

又、戀する少女たちが、窓に倚つてゐることもある。
身じろがずに、いかにも脆さうに、
あたかもその翅の美しいために、
貼りつけられてゐる蝶のやうに。

これは、Rainer Maria Rilkeによる「窓」という詩のもう一部です。詩人は、窓が何であっても、儀式的に見せることができると考えています。窓の枠の中で、人々は立ち止まって何かを待ったり、思いを馳せたりすると言っています。窓は放心者や怠け者を立たせることもあり、彼らは常に同じ姿勢をしていると言っています。また、窓に寄り添って夢を見る少年や、窓に寄り添って恋をする少女がいると言っています。彼らは、蝶のように、美しい翅に貼り付いているように見えると言っています。


部屋の奧、寢臺のあたりには、そこはかとない薄明しか漂はせてゐなかつた
星形の窓は、いまや貪婪な窓と交代して、
飽くことなく日光を求めてゐる。
ああ、誰れか窓に走り寄り、それに凭れかかつて、ぢつとしてゐる。
夜の去つた跡で、こんどはその神聖なみづみづしい若さの番が來たのだ!

その戀する少女の眺めてゐる朝の空には、
青空そのもの――あの大いなる模範、
深さと高さと――それ以外にはなんにもない。
その空の一部を圓舞臺にして、
ゆるやかな曲線を描いて飛び交ひながら
愛の復歸を告げ知らせてゐる鳩たちを除いては。
(朝の空)

これは、Rainer Maria Rilkeによる「窓」という詩のもう一部です。詩人は、部屋の奥にある寝台の周りには、まだ暗い星形の窓があったが、今は貪欲な窓に変わり、日光を求め続けていると描写しています。彼は、誰かが窓に走り寄って、夜の去った跡から、新しい神聖な若さが来ることを描写しています。また、恋する少女が眺める朝の空は、青空そのものであり、鳩たちが愛の復帰を知らせているだけだと言って


私達の區限くぎられた部屋に、
闇が絶えず増大させる
未知の擴がりを與へるやうにと、
屡々工夫せられた窓。

昔、その傍らにいつも坐つて、
一人の婦人が、俯向いたまま、
身じろぎもせず、物靜かな様子で、
縫ひ物をしつづけてゐた窓。

明るい壜の中に嚥みこまれたまま、
そのなかで或像すがたの芽ばえてゐる窓。
われわれの廣漠たる眼界の
帶を結んでゐる環。

これは、Rainer Maria Rilkeによる「窓」という詩のもう一部です。詩人は、窓が闇を増大させ、未知の拡大をもたらすように工夫されていると描写しています。彼は、かつて窓の傍に座って、縫い物をする一人の婦人がいたことを描写しています。また、明るい壺の中に嚥みこまれたまま、それから成長する窓を描写しています。窓は、広大な眼界を結ぶ環を形成すると言っています。


かの女は窓に凭もたれたまま、
何もかも任せ切つたやうな氣もちで、
うつとりと、心を張りつめて、
夢中で何時間も過すのだ。

獵犬たちが横はるとき
その前肢まへあしを揃へるやうに、
かの女の夢の本能が
不意と襲つて、そのしなやかな手を、

氣もちのいい具合に竝べてくれる。
その餘のものはそれに準ならつて落着くのだ。
さうしてしまふと、その腕も、胸も、肩も、
かの女自身も言はない、「もう飽あいた」と。

これは、Rainer Maria Rilkeによる「窓」という詩のもう一部です。詩人は、かの女が窓に寄り添って、何もかも任せ切ったような気持ちで、うっとりと、心を張りつめ、夢中で何時間も過ごすことを描写しています。彼は、獵犬が横たわっている時に、かの女の夢の本能が突然襲って、そのしなやかな手を、気持ちのいい具合に立てるように描写しています。それ以外のものはそれに準じて落ち着くと言っています。そうすることで、かの女の腕や胸、肩も、かの女自身も、「もう飽きた」と言わないで落ち着く。


忍び泣いてゐる、ああ、忍び泣いてゐる、
あの誰も凭れてゐない窓!
慰みやうもなく、涙に咽むせんでゐる、
あの被覆おほひをせられたもの!

遲過ぎてからか、それとも早過ぎないと、
お前の姿ははつきりと掴めない。
いまは全くその姿を包んでゐるお前の窓掛け、
おお、空虚の衣!

これは、Rainer Maria Rilkeによる「窓」という詩のもう一部です。詩人は、窓が慰めもなく、涙に咽ぶように忍び泣いていることを描写しています。彼は、窓の姿が掴みきれないと言っています。窓の姿は、遅すぎてからか、または早すぎて掴めないと言っています。窓掛けが窓を包んでいると言っています、それは空虚の衣である。


最後の日の窓に身を傾けてゐた
お前の姿を目のあたりに見ながらだつた、
私がわが身の深淵を隈なく知つて、
それをはじめてわが物となしたのは。

お前はその腕を闇の方へ向けて
私にそれを振つて見せながら、
私がお前から切り離して自分と一しよに持つて來たものを
私から更に切り離して、逃げて行つてしまはせた……

お前のその別離の手振りは、
永い別離の印なのではなかつただらうか?
遂には私が風に變身せしめられ、
水となつて川に注がれてしまふ日までの……

これは、Rainer Maria Rilkeによる「窓」という詩のもう一部です。詩人は、最後の日に窓に背を向けていたと描写し、自分が窓から切り離したものをさらに切り離されて逃げ去られたことを悔いています。彼は、窓が自分に別離の手振りをしたと考えており、永い別離の印になったのではないかと思っています。そして、最終的には、自分が風に変化し、水となって川に流れ落ちる日までのことを考えています。


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