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ルワンダに渡ったスポーツチャンバラ9(ケニア駐在と世界大会への出場)

前回までのあらすじ

本業の国際協力の仕事の関係で、2013年に二回に分けて合計7か月間、ルワンダに滞在し、後半の4か月間は、偶然、知り合ったベンジャミンが率いるカンフーチームにスポーツチャンバラを教えることになりました。その後も、ルワンダのスポーツチャンバラの活動は続き、人数も増え続け、2014年には第1回目の大会、2015年に第2回大会、2016年に第3回大会が開催されるまでになりました。第3回大会が開催される頃には、ルワンダ・オリンピック協会で働く、若き官僚のジャン・クロードもメンバーに加わり、組織の更なる発展に貢献します。例えば、スポチャンのイベント会場はアマホロ国立競技場で実施されるようになり、その際に新聞やテレビに露出され、ルワンダにおけるスポチャンの認知度が大きく向上しました。また、私は、2016年10月より、現在の業務を得てケニアの駐在員となり、それ以後、ルワンダに年数回訪れるようになりました。

牧歌的な稽古会からナショナル・セミナーへ

2014年、15年、16年とルワンダでスポチャンの大会が開催されたとき、私は日本の自宅に住んでいました。そこで、試合が開催される日のおおよそ1週間前に日本からルワンダに渡り、試合の翌日に帰国の途につきました。試合前の一週間は、朝夕の稽古と大会運営の打ち合わせでヘトヘトになったのを覚えています。この朝夕の稽古は、当日まで時間も決めず、参加者もその時にならないと分からないといった気楽な稽古会でした。そのため、内容も参加者の構成を見ながら、私がその場で決める、まあ、普段の稽古と変わらないものでした。ところが、私がケニアに赴任し、その頃、現事務局長のジャン・クロードが入り、状況は一変します。私が以前と同じつもりでルワンダに行く日を打診すると、稽古の内容と各々の時間配分について聞かれ、また、声を掛ける新聞やテレビなどのメディアについて聞かれました。稽古会は、ナショナル・セミナーと銘打たれ、バナーも用意されました。そして、会場は湖の畔からアマホロ国立競技場へと移りました。稽古が始まると複数のプロのカメラマンが大きなカメラで撮影を始め、稽古が終わると、ベンジャミン、ジャン・クロード、それから私にもインタービューが回ってきました。湖の畔で場当たり的にやっていた牧歌的な稽古会から様変わりです。正直なところ、私には牧歌的な稽古会に対するノスタルジーもありますが、今のナショナル・セミナーの形式になって、スポチャンの認知度は飛躍的に向上し、良かったと思います。

日本行きへの決断

私が2013年にルワンダを去ってからもスポチャンの活動は続き、2014年に第一回目の試合が開催された時点で、ルワンダ・スポチャンの現会長であるベンジャミンには、一度、日本を見てもらいたいと思いました。そのための資金を集めようと株の取引を始めますが上手く行かず、また、クラウドファンディングも試しますが思うように集まりませんでした。結局、今の比較的報酬の高い業務が得られ、自腹で賄うことが早いと結論しました。でも、それなりの金額が必要なので、実施はズルズルと遅れました。そのうち、日本でベンジャミンに会わせたかった友人が闘病の末、亡くなってしまいます。複数の古流剣術に通じて、そうした技をスポチャンの打突で使いこなす稀有な逸材でした。これを機に、師匠が元気なうちに、ベンジャミンを師匠に引き合わせなければと、焦ります。そこで、日本行きの時期を考えたのですが、せっかくならば、世界大会の実施時期に合わせようと決めました。そこで、2018年12月9日の第43回世界大会に合わせ、その1週間前から休暇を取り、ベンジャミンと共に帰国しました。

師匠との稽古

ベンジャミンの来日については、7月に一時帰国した頃から師匠に相談していました。そのため、世界大会までの数日間は、連日、師匠と兄弟弟子達に手配していただいた稽古会で埋まりました。アフリカから世界大会への出場は初めてのこともあり、他の先生方からも稽古の招待をいただいたのですが、残念ながら、お断りするしかありませんでした。ベンジャミンは、初めて見る日本と日本社会に嬉々として、また、色々な人と剣を交えて知り合い、短い期間にも関わらず、収穫は大きかったと思います。特に、散々、私から聞いていた師匠に会い、実際にその技と人柄に触れたことは、今後も益々スポチャンに邁進するモチベーションになりました。特に、居合の稽古に加わり、本物の日本刀の技術に触れたことは、スポチャンの技を磨く上でもいい刺激です。また、師匠と兄弟弟子達に、ベンジャミンの人柄を、大変、気に入っていただいて、稽古の相手でもお世話になり、本当に良い絆ができました。

世界大会出場

12月の寒い風が吹く中、ベンジャミンと一緒に世界大会が開催される調布に行きました。ベンジャミンは、小太刀と両手長剣にエントリーして、残念ながら、どちらも1回戦敗退しました。それでも、空いてる時間に会場に集まった選手達が、向こうから声をかけ、ベンジャミンと剣を交えていただき、色々なタイプの選手と戦えたことは大きな収穫です。アフリカ人選手が珍しいこともあると思いますが、皆さん、良く声をかけていただき、感謝です。また、海外からの選手達は既にベンジャミンを知っている方も多く、皆、親しげに声をかけていただきました。これも、一つには、ジャン・クロードがfacebookで、しっかりとルワンダ・スポーツチャンバラの活動を発信しているためです。こうして、他国の選手や先生方との絆も結べました。

日本行きのその後

2014年から考えていたので、私の中では、ベンジャミンの日本行きは4年越しの大きなプロジェクトでした。それが終わると、ホッとして、少し腑抜けた状態になりました。ルワンダのスポチャンで、次は何を目指そうかと思案しました。今、ケニアでもスポチャンが始まり、ウガンダでも始まりつつあります。そこで、この東アフリカ3カ国大会を開催したいところです。ただ、それには、まだ超えるべきハードルは多数あり、数年のうちに実施することは難しそうです。その前に、近隣国の大会にルワンダから出場するのが良いかもしれません。一番近いところではエジプトになるので、エジプト大会出場を目下の目標にするべきでしょう。

直近のナショナルセミナーと今後

その後、先月(2019年3月)、私はルワンダを訪れてナショナルセミナーの講師を務めました。その時、アマホロ国立競技場の室内競技場を使って、在ルワンダ日本大使夫妻にも出席いただき、2013年に始めた頃には考えられない盛大なイベントとなりました。こうした発展は感慨深いものですが、まだ、組織的に脆弱なところもあり、発展の余地は大いにあります。このルワンダに渡ったスポチャンの話は、現時点までキャッチアップしたので、ひとまず、終わりにしたいと思います。また、何か面白いエピソードを思い出した時には、随時、書き加えます。


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