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フィリピン華僑の世界と武術修行

前回、1991年に青年海外協力隊員(現行のJICAボランティア)としてザンビアに渡り、2年半ほど過ごした生活風景を主に食生活の視点から描いてみました。今回は、その後、1994年にフィリピンに、やはりJICAの仕事で3年間生活した様子を書いてみようと思います。日本から遠く離れたザンビアの次は4時間ほどのフライトで首都マニラに到着するフィリピン。サバンナと疎開林の乾燥した大地から湿った熱気が体に絡みつく珊瑚礁に囲まれた国へと舞台は移り、見るもの聞くものは様変わりしました。

人生を楽しむ達人たち

今でもそうかも知れませんが、一昔前、フィリピンというとスラムでの貧困生活が日本のメディアでは取り上げられがちでした。確かに、それもフィリピンの一面ではあるけれど、中間層の人々はパーティー、ビール、ダンスが好きで一般的な日本人より、よほど、人生の楽しみ方を知っています。例えば、職場では職員の誕生日会を欠かせません。みんなでケーキを食べて簡単な余興をするくらいですが、本当に同僚たちはそれを楽しみにしていました。

マニラの職場の女性達

私がいた職場は、マニラの南にある科学技術省理科教育研究所というところで、日本だったらさぞかしお堅い感じの職場だったと思います。まず、驚いたのは職員の大多数が女性で、私は少数派の男性でしたが、それで少しも肩身の狭い思いはせず、むしろ、大切にしてもらいました。そして、皆さんエリートでとても優秀なのですが、全く嫌味なところがなくて親切でした。赴任した当初は少し緊張感がありましたが、職場のボーリング大会に出てからは、すっかりと打ち解けて、ファーストネームで呼ばれるようになりました。

性の区別に大らかな人々

日本ではオカマというとネガティブな意味を持つ言葉になってしまいますが、フィリピンで女性的な男性を表すバクラという言葉には、それほど否定的な響きはありません。むしろ、居場所が確保されています。腕の良い床屋にはバクラが高確率でいます。また、職場に一人は必ずバクラがいてパーティーのコーディネーターや司会として重宝されます。彼ら(彼女ら?)は、一般的な性の感覚を持っている人より、きめ細かい感性を持っているようで、そのため、多くの人を楽しませることが出来るのでしょう。

マニラの外食

ザンビアにいた時とは違い、いくらでも美味しい外食があったため、マニラに住んでいたときは、ほぼ自炊はしていません。フィリピン料理は日本ではあまり知られていませんが、スパイス控えめで魚介類が豊富なので、日本人の口には合います。タマリンドの酸っぱ味を効かせたエビのスープ「シニガン・ナ・ヒポン」はタイのトムヤンクンのようなインパクトはありませんが、蒸し暑いフィリピンの気候に相応しいスープです。また、白身の生魚を賽の目切りにしてニンニク、唐辛子、酢で食べる「キニラウ・ナ・タンギギ」はビールのつまみに持ってこいです。そして、ご馳走は「レチョン・バボイ」と呼ばれる豚の丸焼きです。これは、大きなパーティーでは必ず出される一品で、実際、とても豪華な気分の味わえる美味しい料理です。

リサール・パークでの出会い

当時のマニラで一番大きな緑地と言って差し支えないのがリサール・パークです。ここでは、短棒を使うことでよく知られているフィリピンの武術であるアーニスを練習するグループが週末には集まります。興味があったので、何度も見に行きました。すると、何度目かのときに、とても愛想の良い痩せ型の男性、強いて言えば少林サッカーの主人公と似た人から声をかけられました。なんでも、近くにチャイニーズ・ガーデンがあり、そこで中国武術を練習しているので、来ないかということでした。この師匠から拳法を習い始めるのですが、それをきっかけにフィリピン華僑の社会を垣間見ることになります。

オンピン・ストリートの武術学校

毎週日曜日に、チャイニーズガーデンで拳法の練習に欠かさず通うようになって数ヶ月が経過すると、師匠からマニラの旧市街にある中華街であるオンピンに来るように言われました。夕暮れの中華街は燻んだ木造の建物が並び、石畳に馬車馬の蹄の音が響き、タイムスリップしたような空間でした。池上遼一のクライングフリーマンにでも出てきそうな景色です。師匠に連れられて、古ぼけた建物の2階に入ると、十数名の人々が中国武術を稽古する姿が目に入りました。チャイニーズガーデンだけでなく、この南勝(ナムシン)と呼ばれる武術学校で学ぶことが許されました。

ナムシンの達人達

ナムシンには、優れた技を持った先生が何人もいて、しかも全員が全く違う風格の動きをしていました。例えば、チベット白鶴拳の達人であるデイビット先生は、細身ながら、長身を生かした大きな動きと速い攻撃を得意としていました。一方で、フィリピン大学の教授であるクー先生はガッチリ体型の虎拳の達人で、力強い動きに秀でていました。私には、この先生の動きが最も合うので、この先生から教わった技をよく練習し、今でも部分的に覚えています。特に、三戦(サンチェン)と呼ばれる形は体調を整えるのに重宝しています。それから、好々爺の大先生には槍の基本を一度だけ教わりましたが、それは未だにスポーツチャンバラで槍を使うときにも生きています。

春節と獅子舞

一度、ナムシンの仲間から旧正月である春節に呼ばれることがありました。何をするのか知らないままついて行くと、オンピンの商店や料理屋を巡って、獅子舞を演じました。私は打楽器を担当しただけですが、派手な獅子舞の動きに賑やかな打楽器と爆竹で祝う中華風の正月にギャラリーではなくプレーヤーとして参加しました。獅子舞を終えると、みんなで料理屋に入り、何人かがスピーチをした後、料理を堪能しました。その間も絶え間なく流れる賑やかな音楽が、時々、別の大音響のために中断されます。それは、ナムシンへの寄付を読み上げるものです。名前と金額が大声で読み上げられ声援と拍手が沸き起こります。こんな募金のやり方は日本では見られない、とても華僑的だと感心しながら、その場を楽しみました。

常夏の国

日本には四季があり、夏には植物も動物も最も活発になり、人間もそれに釣られて山へ海へと活動的になります。一方、常夏のフィリピンでは、年中、人々が活動的で情熱的に人生を楽しんでいました。私にとって、人生って、こうやって楽しんで良いんだと学んだ国がフィリピンでした。その雰囲気が少しでも、これを読んでいただいた方に伝わったなら幸いです。そして、調和や静けさを大切にする日本も大好きですが、それが過ぎて、息苦しさを感じこともあると思います。そんなときは、少し、フィリピンのような国を覗いて見聞を広げてみることをお勧めします。

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