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猫やウサギを食べるのはかわいそうなことですか?という話

東京オリンピックボクシング女子フェザー級で日本人選手が金メダルを獲得したことについて朝の情報番組のあるコメンテーターが、

「女性でも殴り合いが好きな人がいるんだね」
「嫁入り前のお嬢ちゃんが殴り合ってね、こんな競技が好きな人がいるんだ」

などと発言し「女性差別だ」「競技への侮辱だ」と大きな批判を浴びました。

これらの失言は「誤解を招く表現をしてしまった」というより「つい本音が出てしまった」のだと思います。

これらは、今の時代は男女を区別した発言をしただけで問題になることがあるという新しい常識をアップデートしていないから起こるのだと思います。

しかし、思考が停止している人は、このアップデートができません。
一例をあげるとすれば、思考するとは以下の手順を踏むことです。

1,自分の考えをチェックする
2,自分の考えと異なる立場から見てみる
3,改めて自分の考えを見直してみる
4,物事の本質を考える

できる人は当たり前にやっていることですが、思考が停止している人は1の「自分の考えをチェックする」ことすらせずに発言をします。
まるで自社で作った商品に不良品がないかを確認もせずに売り出しているようなものです。
そんな人間がメディアに出れば批判を浴びて当然といえるでしょう。
しかし、人間のそういった思考力や客観力は一度身に着けて終わりではありません。
人間というのは良くも悪くも、日々人と関わることで考えが変わってしまったり偏りができてしまいます。
一度窓をきれいに拭いても数週間もすればほこりがたまり、見えなくなるようなものです。
なのでその窓を定期的に拭いてやらねばならないのです。
ここではある一つの問題を用いて、僕とこれを読んでくれている人の思考力の窓を拭いていこうと思います。
そもそも思考力が身についていない人はこれを見て、「ふむふむ、なるほど」くらいに思ってくれればよいです。

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資料1

ベトナムでは、猫の肉を料理のつまみに出す人が後を絶たない。
猫肉食は表向きには禁止されているが、猫を飼っている人は、誰かに食材として捕獲される不安を抱えて生活している。
ベトナム当局は、猫をネズミ駆除に役立てるのを推奨するため、猫を食用とすることを禁止しているものの、市内に猫肉の料理を出す飲食店が以前数十軒ある。

1,自分の考えをチェックする

この資料を読んでぴょまえはどう思ったか、「かわいそう」「野蛮だ」「動物虐待だ」と思ったり「猫っておいしいのかな」などなど多くの人はこの資料を読んで嫌悪感に似た感情を持ったのではないか?
ペットとしてかわいがっている場合はもちろん、そうでなくても猫や犬の肉を食べるのはかわいそうであり、野蛮な文化としてやめるべきだと思ったことでしょう。

2,自分の考えと異なる立場から見てみる

「猫を食べてはいけない」を一旦おいて、ここで「食文化」という観点を導入してみよう。
日本は自国の食文化を当たり前だと思っているが、たとえば欧米の国々の人から見たら、そうではない、クジラを神聖な動物として捉える価値観も目立ち、特に日本人の鯨食は強く批判されている。

ここでは、
・鯨食は日本の文化
・他国から抗議される筋合いは無い
・オーストラリアだってカンガルーを食べている
などなど考えるだろう

日本ではクジラ🐋の肉を食べるだけでなく、その脂も使い、ひげや歯も工芸品に加工するなど、いろいろな形でクジラ🐋を文化として定着させてきた歴史があります。
それについて他国から「クジラ🐋の虐殺をやめよ」と言われても納得がいかないでしょう。

しかし、そうであるならば、日本人の鯨食と、ベトナムの猫食の何が違うのでしょうか。
どちらも同じ哺乳類ですし、我々はクジラ🐋をおいしいと言って食べるのに、猫🐈に関しては「残酷だ」というのは矛盾するのではないでしょうか。

ペットかどうかということでしょうか。
ペットは家族であるという考えが浸透してきました。
家族の一員だからペットは食べないという意見には大いに同意できるでしょう。では、ペットではない野生の猫だったらどうなのでしょうか。
「野良猫ならいい」とはならないのではないでしょうか。

2021年に横浜でペットのアミメニシキヘビが逃げ出したというニュースがありました。幸い無事捕獲されましたが、もしもそのニシキヘビが誰かを見つけて、害を及ぼしてはならないと思って殺した人がいたとしたら、皆さんはどう感じますか?
「まぁ、仕方ないかな」と思う人も多いのではないでしょうか。

しかし、もし逃げ出したのが犬🐶であり、その犬を勝手に殺したら大問題になるでしょう。
しかし、ペットとして一般的かどうかというのがあるかもしれません。

では、逃げ出したのがアライグマ🦝だったらどうでしょうか。アライグマもペットとしては決して一般的とは言えませんが、アライグマを殺すのはかわいそうと感じる人は多いのではないでしょうか。
ところがアライグマはかなり気性が荒く、攻撃性がかなり高い動物で、嚙まれてしまったら大怪我をします(🦝←あぶないです)

こうなってくるとかわいそうに思うか思わないかの境界は、「単なる見た目の印象」ということになってしまいます。

→つまり、思考にバイアス(偏り)がかかっているのです。

例えば見た目がかわいい動物にウサギ🐇がいます。
「ウサギを食べている国がある」と聞いたらどう思うでしょう。
「ウサギを食べるなんてかわいそう」と思うのではないでしょうか。
しかし、ウサギを食べることは世界的に見られる文化です。

このように考えを進めていくと、犬や猫を食べると聞いた時の不快感や怒り、かわいそうという感情の範囲がいかに曖昧かがわかると思います。
「そもそもどんな動物であれ、食べるということは究極の動物虐待ではないか」という問いが浮かんできてもおかしくありません。

3,改めて自分の考えを見直してみる

異なる立場から見てみて改めてどう感じたかを見直す

・全員が菜食主義になるべきだ
・やっぱり肉は食べたい

などなど個人個人の意見があると思います。
ワイは「自分の目の前で殺されてなければ、見て見ぬ振りができるから、どこでどんな動物が食用に捕獲されてようと仕方ないか」と思いました。(思ってしまうのは仕方ないです)

ここで大事なのは、「いきなり否定的にとらえず、一旦わきに置いておくことで思考が先に進められる」ということです。

今回のテーマである、ベトナム人が猫の肉を食べることについてですが、こうした問題も簡単に結論が出るものではないということが分かったと思います。

4,物事の本質を考える

今回のテーマを「何が普通で、何が特殊なのか」という問題として考えてみましょう。
犬や猫、そしてクジラを食べることは特殊で、牛や豚は普通なのか、はたまた生き物を食べること自体が野蛮で特殊なのか、それともほかの命を奪うことで生きることは、業として人間が受け入れるべき普通なのか。
人の本性とは、人は何をもって人たらしめているのか。
アメリカのドナルド・E・ブラウン教授はすべての人間が共通に持っているものはなんであるかを考察しています。
つまり、「人が人であるには何が必須なのか」ということです。
全部は紹介できませんがそれは例えば次のようなものです。

・人間の文化にとってきわめて重要な要素は言語である
・人間は顔で個人を識別する
・人間は徹底した道具製作者である
・人間は常に何らかの形で雨露をしのいでいる
・人間には、社会化のパターンがある。子供たちは、ほったらかしにされて、一人で育つわけではない。
・人間には一時的、あるいは特定の状況に過ぎないにしろ、指導者がいる
・人間は善悪を区別する
・人間には、確かに超自然的な考え方もするが、同時に唯物論者でもある。
・人間には、踊りと音楽がある。

もちろんこれは絶対的なものではありません。異論や反論は当然あって知るべきです。
しかし、ここで考えてもらいたいのは、今の世の中は、「個人の個性や文化の多様性といった違いばかりが強調されて、共通のこと、普遍なこととは何かを考える機会が少ないのではないか」ということです。

「みんなちがって、みんないい」という言葉は金子みすゞさんの作品の一節ですが、多様性を表す言葉としてよく使われます。
ワイもこれに異論があるわけではありません。
しかし、「違う」ということだけを良しとすると思考停止に陥ります。
「違い」とは「普通」との距離感で決まるものであり、その差異こそが考える対象だからです。
「普通」と「特殊」というのは対立しているものではなく「特殊」は「普通」を前提にしています。
猫🐈やクジラ🐋、ひいては動物全般を食べることを「特殊」で野蛮とするならば、何が人間にとって「普通」なのかについても、もっと突き詰めて考える必要があるのです。

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おわり。
少しでも読んでくれた人の思考の手助けにになればと思います。



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