アカシックレコードとまだ見ぬイタリア。

学生の頃、そういう時代にはよく訪れる、誘われて行ってみたけど実際何の集まりだかよくわからないまま流れで参加しちゃうタイプのライフイベントのひとつが発生した際、その場で出会った友達の友達の友達くらいの人に、アカシックレコードを読んでもらったことがある。

ちなみにこの文章を書いている今もアカシックレコードが一体なんなのかをよく理解していない私なので改めてググってみたが、結局よくわかんなかったけどそれでも言うなら概ね宇宙的なアレソレに分類される事象らしい。

また、私は別になにも「目に見えるものしか信じないぞ!!」という固い信念を貫いて生きているタイプではないが、かといって形而上の事象に対する理解力が高いかというとそんなこともない平々凡々に凡庸な人間だ。

その時もアカシックレコードが一体全体なんなのかわからず、軽く説明してもらい、どうやら今の人生で私という存在に転生してきた目的などを知ることが可能らしい、という具合にこちらが解釈した段階で、その友達の友達の友達くらいの人が伝えてきたのは、

「君は15世紀ごろのイタリアあたりで建築関係の仕事をしていたから、写真や映像を見るときも構図が気になって、特に直線美が好きでしょう」

という、おおよそ人生の目的とかいった内容とはかけ離れた、美的感覚におけるフェチの話だった。

別にお金払って鑑定してもらってるわけでもなく、その場でなんとなく見てあげるよ〜みたいな感じでみてもらっておいてなんなんだけど、どうせならもうちょっと自分でもまだ気づいていない、燃えたぎる内なる使命!!的なものを期待してしまっていた欲しがりな私だが、なんか、多分、アカシックレコードってそういうことじゃないんだろうな、知らんけど。


最近実家で子供時代から整理してこなかった自分の持ち物などを整理していたら、小学校時代の連絡帳などを発掘したのだが、今のご時世、学校と親御さんの連絡も電子化が進んでいることであろう。

風邪で休むときはわざわざ近所の同級生とかに母から「今日は風邪で休みます」と一筆書いた連絡帳を、自分の担任に手渡してもらっていたりしていたなんて、平成生まれの子供を持っていた親の苦労が偲ばれる。

固定電話を用いた電話連絡網での連絡なども、令和の小学生のいるご家庭には無縁のタスクだろう。

今を生きる私ときたら、固定電話を使って人と連絡をとることも、手書きのノートで誰かとやりとりする行為ともすっかり無縁の生活を送っていることに改めて気付かされた。

前世なんていうものも、普段は忘れてるだけで、もしかしたら、生まれ変わる前の人生で生きていた土地に行ったり、そのころに使ってたものにバッタリ骨董市で再会する機会などがあれば、案外簡単に思い出せるものなのかも知れない。

そう妄想を巡らせるうちに、コロナ禍の収束した世界線では、私はまだ見ぬイタリア共和国への旅行を検討してやってもいいような気がしてきた次第である。


必ずやコーヒー代にさせていただきます。よしなによしなに。