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「静観」ではない!

都知事選について山本太郎代表が党として「静観」の立場だと言ったとき、同時に小池・石丸両候補についての批判をした。
これを聞いた人の大半が、(消去法でも)蓮舫さんに入れるしかないでしょ、の思いをくみ取ったのではないかと思う。
実際の投票行動はともかくとして。
代表の発言はそれでいいと思いつつ、私は「静観」という言葉に何となく引っ掛かりを覚えていた。

その後、思わぬところで代表は「静観」という言葉を再び口にした。
(ああ、もう…)
やり切れぬ思いがこみ上げた。

党スタッフからの性被害を訴えた女性市議は離党した。
素朴な疑問。
加害者が部外者であっても「静観」と言うのか?

代表の言葉を受けて、支持者の中から続々と「静観」と言い出す者が出たのを見て私はゾッとした。
なんて凡庸なのだろうと。
結局…そんなレベルなのかと。
でも、すぐ思い直した。
私の方がれいわ新選組に対して心理的距離を取るべきなんだと。

被害を受けた後の被害者の言動を批判するような無神経さは何によってもたらされたのか?
言うまでもなく、支持あるいは属する組織(党)への依存心からだろう。
依存心(もしくは執着心)は本当に恐い。
ありのままに物事を見る感性を鈍らせる。
そんな心持ちで「静観」ですって?
理性的態度を選択したかのような錯誤に陥っているようにしか見えない。
自身の内面を見つめてほしい。
加害者が身内の中にいたという現実を受け止められているだろうか、と。
とんでもなく不快な現実を。

半年前、代表の松葉杖姿を見たとき何が起こっているんだろうと思った。
転ぶことにも意味がある。
すべての出来事は意味がなければ起きない。
怪我をしたとき、とっくに代表はその問題を知っていたわけで。
自分を見失った(自分らしくない)言動をすれば、誰よりも自分自身が見逃してはくれないのだ。
無意識(潜在意識)は意識(顕在意識)よりも絶大な力を持っている。
それこそ、加害をする者の動機は無意識の中にあり、ときに抗えないほどの衝動のエネルギーを表出させる。
自分に対して「気づけ!」とばかりに。
代表の中で生じているズレはこの問題一つだけではないかもしれないが、いつの頃からかずっと痛々しく危うげなものを感じながら見守ってきた。
どうしようもないことはわかっている。
多くの人が物理的に精神的に多忙な生活を送る中、「ズレてるよ!」「現実を見て!」という無意識からのメッセージを受け取り、向き合うなんてするはずがないのだから。
そもそも何故ズレてしまうのか?
自分も含めた人それぞれの多様な意識(欲求)のエネルギーに当てられてしまうからだと思う。
ズレた状態を見据えることなく「静観」などと言っても…

身内(組織、自分自身)びいきで被害者を切り捨ててしまう弱さをごまかすなと言いたい。

さて、自宅の壁に貼ったれいわのポスターはまだそのままだ。
そのうち剥がしたくなったら取っ払うだろうし、オーナーズについては来年の更新はわからない。
静観?
なんかじゃない。
私は失望と怒りの感覚を自覚しつつ、見守っている。

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