トリエンナーレとトリカエナハーレとの狭間
憲法第13条はすべての人に対して幸福追求権を保障しており、その結果、人格的利益(人格権)については、国会がこれを保護する法律を制定しなくとも、司法府や行政府はこれを保障する義務を負っている。このため、その人格的な利益・価値が踏みにじられ、そのことによって受忍限度を超える精神的な苦痛を被った場合は、差し止め請求や損害賠償請求などを通じて司法的救済を受けることができる。これが、現在の日本の裁判実務で採用されている考え方です。
ヘイトスピーチの問題点は、差別される側の属性集団に属する人々の人格的な利益・価値を踏みにじり、精神的な苦痛を生じさせる点にあります。人種や民族などの集団は、人ではないので、精神的苦痛を感じないのです。精神的苦痛を感ずるのは、その集団に属する個人です。その精神的苦痛の程度が受忍すべき限度を超えていれば、その個人の人格権が侵害されたということになります。
その集団に属する人々のうち特定の人を名指しにすることなく、あるいは特定の人に向けることなくなされたヘイトスピーチが、その集団に属する個々の人々の人格的利益を踏みにじるのかという疑問があるかもしれません。しかし、そのヘイトスピーチが直接、又はメディアや口コミなどを通じて間接的に、そのターゲットとされた集団に属する人々に伝われば、そのヘイトスピーチによる攻撃の対象に自分が含まれているとの認識に至りますから、恐怖感や、屈辱感などの精神的な苦痛を感ずることになります。たとえば、特定のテレビ番組で、特定の属性集団を見つけ次第殺しましょうという呼びかけを番組の冒頭で司会者が行うこととした場合、その集団に属する人々のうちの誰かが特定されていないから、その集団に属する人々は誰も恐怖感を感じない、ということはないのです。「そのうちの誰か」が限定されていない場合、その集団に属する人々全てが攻撃の対象とされていると受け取られるのです。
ですから、「そのうちの誰か」を特定することなしになされているヘイトスピーチというのは、そのターゲットとされる集団に属する全ての個人の人格的な価値ないし利益に対する「明白かつ現在の危険」となり得るものです。したがって、それが受忍限度を超えるものであった場合には、裁判所は差止め命令を下すことができます。また、公的な施設においてヘイト表現が行われ、それがターゲットとされた集団に属する個人に受忍限度を超える精神的苦痛を与えるものであった場合には、当該施設の管理権者は、当該施設内での当該表現を直ちにやめるように指示したり、それでもやめない場合に当該施設の使用許可を取り消したりしても、所定の手続きをきちんと踏んでいれば、憲法違反とはなりません。
ですから、愛知県の大村知事が、「日本人のための芸術祭あいちトリカエナハーレ2019『表現の自由展』」なる展示会の出展作品を「明確にヘイトに当たる」として非難し、「(展示内容が)分かった時点で、中止を指示すべきだった」としたことは正当であったといえます。
では、あいちトリエンナーレ2019、とりわけ「表現の不自由展・その後」について、日本または日本人に対するヘイトスピーチであることを理由としてその展示を中止させることについてはどう考えるべきでしょうか。
国粋主義者から特に問題とされた「平和の少女像」「遠近を抱えて」「時代ときの肖像ー絶滅危惧種 idiot JAPONICA 円墳ー」のいずれも、「日本人」という属性集団自体を攻撃するものではなく、「日本人」という属性集団に属する個人の人格的な価値・利益を踏みにじるものではありません。たとえば、「遠近を抱えて」は、大日本帝国時代の、主権者だった頃の昭和天皇の肖像写真を組み込んだ自画像が燃える映像を含みますが、これは、上記自画像を含む図録が燃やされたことを再現したものであって、昭和天皇に対するネガティブな感情をあらわにするために昭和天皇の肖像写真を燃やしたものでないことは明らかですし、まして、「日本人」という属性集団、ひいては「日本人」という属性集団に属する個人を攻撃しようというものではありません。ですから、「日本人」という属性集団に属する個人の人格的な価値ないし利益が踏みにじられ、その結果受忍限度を超える精神的な苦痛を受けたことを理由としてその展示の中止を求めることはできないものと考えられます。
したがって、「表現の不自由展・その後」に対する展示中止要求等を非難しつつ、「日本人のための芸術祭あいちトリカエナハーレ2019『表現の自由展』」なる展示会の中止を求めること自体はダブルスタンダードとはなりません。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?